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1st

​宇野邦一『政治的省察』・連続対談

第1回:2019/08/03 
宇野邦一さんと齋藤純一さんの対話

​公共性と身体 ~アレントとフーコーを巡って~

 宇野邦一 Uno Kuniichi 

1948年生まれ。哲学者・立教大学名誉教授。著者に『意味の果てへの旅』『アルトー思考と身体』『ドゥルーズ 波動の哲学』『反歴史論』『アメリカ、ヘテロトピア』『<兆候>の哲学』など。最近の訳書にS.ベケット『モロイ』がある。

 齋藤純一 Saito Junichi 

1958年生まれ。

早稲田大学大学院政治学研究科博士課程単位取得退学。

横浜国立大学経済学部教授をへて、現在、早稲田大学政治経済学術院教授。専攻は政治理論・政治思想史。著書に『公共性』、『自由』、『政治と複数性』、『不平等を考える』など。

概要

"政治と自己"という、稀有な問題の立て方を行った、アレントとフーコー。
2人の思考は、どのように異なり、交差しているのか。
この2人を並行して考え、時にとりとめもなく語り合う。
その中で、『政治的省察』の自己論もまた、その輪郭を変様させつつ、明らかになる。

以下は、2019年8月3日に学園坂スタジオで行われた対談イベントの録音ファイルです。全3時間に及ぶため、18トラックに分割して収録しています。また、ごく短く要点を抜き書きしています。

track 1 / 政治を書かせる、いくつかの言葉

00:00 / 15:36

// topics //

 宇野 :  今まで色々と考え、話してきたモチーフを、どのように1つの本『政治的省察』とするか。政治をどう考え、また、それについて、言葉をどう使うか。友人でもある李静和氏の本(下記)には、そうした点で、多大な影響を受けてきた。またやはり、『政治的省察』は、ハンナ・アレントの思想や言葉無しには、存在しないと言える。齋藤氏も諸著作で重要視しているアレントについて、その考えを聞いてみたい。

 
宇野 :  市村弘正氏の『敗北の二十世紀』は、アレントの思想を、政治という文脈に還元できない、得体の知れない、果てしない空間に響く言葉として、読み取らせてくれる。アーレントが繰り返し、政治の基盤性として強調した、公共性や複数性という問題を、彼女自身の生き方と照らし合わせ、考え直す必要がある。

 
宇野 :  自分自身と政治との関わりを、どう言うことができるか。今日で言えば、憲法改正への自身の見解をどう言うことができるのか。若い時からこうしたことを考えていた。取り分け、“疎外”という言葉に引っかかり続けてきた。この語を、マルクス主義的な文脈の外で、詩(ポエジー)の問題として考えたかった。

// references //

李静和, 1998.『つぶやきの政治思想―求められるまなざし・かなしみへの、そして秘められたものへの』, 青土社 .

アレント,ハンナ. 1973.『全体主義の起源』.

市村弘正, 2007.『増補 敗北の二十世紀』, 筑摩書房.

※ 内容面に、比較的深く言及された書籍のみ表記。

※ 洋書の邦訳書については、1つに特定できるもののみ表記。

※ 邦訳書が存在しない書籍は、原題(アルファベット)で表記。

track 2 / 対話への窓口:詩-民主主義-音楽

00:00 / 07:49

// topics //

 宇野 :  疎外を含んだ、本の大きなテーマとして“民主主義”がある。やはりドゥルーズを多く参照して書いたが、しかし時折、アルトー、ジュネ、ベケットを読んだり、邦訳しながら、民主主義を考えた。

 宇野 :  取り分け『名づけえぬもの』(ベケット)は、“苦労して読んでも、なんにもならない”という事態の極致である。そうした文学や詩の泥沼のような領域に入り込みつつ、同時に、ドゥルーズがリトルネロのように繰り返していた「民衆が欠けている」「民衆がいない」という、音楽-政治を巡るテーマ(『千のプラトー』)を参照し続けながら、民主主義という言葉を再考した。そうして、“政治の主体化”をあえて行ってみた。こういう、極めて個人的な事情から生まれた本が、『政治的省察』。勿論この本の中には、複数性や対話性へと開かれ得る、色々な窓口があるはず。しかしそれがどんな働き方をするのかは、自分ではわからない。

// references //

ベケット,サミュエル. 1953.『名づけえぬもの』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980.『千のプラトー』.

ランシエール,ジャック. 2005. 邦訳:2008.『民主主義への憎悪』(松葉祥一訳), インスクリプト.

track 3 / 政治と自己との距離

00:00 / 07:06

// topics //

 李静和(進行)(以下:李) :  私個人について、“疎外”に関して言うと、朝鮮半島では翻訳の伝統が遅れていたため、外国のテキストは、数世代前の訳文でしか読めなかった。このような、テキストとの間に開いている特有の時間性を、一種の疎外性として感受するところから、自分のすべてが始まっている。

 李 :  宇野氏は40-50代で、アルトーやジュネとの出会いを経た思考を広げた。2012年に出版された『アメリカ、ヘテロトピア』では、それらの思考が、アレントの複数性や公共性の問題へつながったと思う。“政治と自己との距離”が意識される中で、色々なテキストと通じる自己の時間性がそこに開いていく、という道筋が、その本にはそのまま記述化されている。

 
李 :  齋藤氏の集大成的な著作、『政治と複数性―民主的な公共性にむけて』は、個人的にとても好きな本。理論的記述によりながらも、情念(passion)が働く、ある種の感性的な問題圏として、“見棄てられた存在”への語りが展開されている。「政治とは~である」という直接的な言明はせず、常に自己感性に寄り添って政治を思考する点は、齋藤氏、宇野氏、両名に共通している。

// references //

宇野邦一, 2012.『アメリカ、ヘテロトピア: 自然法と公共性』, 以文社.

齋藤純一, 2008.『政治と複数性―民主的な公共性にむけて』, 岩波書店.

track 4 / 世界疎外と自己への配慮

00:00 / 07:02

// topics //

 齋藤 :  疎外というと、アレント『人間の条件』後半には、“世界疎外”と言われる。近代の決定的な経験は、(ヘーゲル-マルクス的な自己疎外ではなく)、“世界から自分自身に内化する”という疎外性による。世界-人間、人間同士の関係性から、自己生命へ内化し、自己を安定させる。これは、ナチズムが供給した、過去-未来へ貫徹する必然的な世界観=“超-意味”へ、人々が自身を内化させた事態に直結する問題。1人1人の間の関係性から、その外部の“超-意味”へ、人々が内化してしまう。見田宗介(筆名:真木悠介)は端的に、“人間の疎外”という言い方をしている。自分が疎外される、というのではなく、自分自身で、意味へと(積極的に)疎外していくこと。

 
齋藤 :  フーコーの「自己への配慮」(『性の歴史3』)では、18世紀後半-19世紀に渡り、生、生存に関心を持つ歴史が開始されたと言われる。アレントも、ホッブスより後の18世紀末-19世紀にかけ、個々人ではなく、集合的な生命の安全や増殖性に関心が向けられていったと考えており、これは、フーコーが「知への意志」(『性の歴史1』)で考えているような、集合化された身体や生命の健康保持性へ向かう政治、という問題とかなり重なっている。

// references //

アレント,ハンナ. 1958.『人間の条件』.

アレント,ハンナ. 1973.『全体主義の起源』.

フーコー,ミッシェル. 1976.『知への意志 (性の歴史1)』.

フーコー,ミッシェル. 1984.『自己への配慮 (性の歴史3)』.

track 5 / "超-意味"を避ける、自己との対話

00:00 / 05:25

// topics //

 齋藤 :  さらに宇野氏も注目されている“自己倫理”について。アレントにとって(おそらくフーコーにとっても)それは、諸個人を安定的に繋いでいた伝統の糸が切れたときに生じる問題。そこで超-意味へ逃げないとすると、“自己と対話する”という関係性を自己内に作ることが問題的に生じる。そのために重要なことは、自分自身を空欄状態に保ち、自己内で、諸観点からの対話を続けさせておくこと。丸山眞男はこのアレント(と福沢諭吉)を引き継ぎ、1つの絶対的意味にすがるのではない、“自己内対話”を提起した。

 
齋藤 :  アレントは、“諸権利を持つ権利”を奪われた人々について、“場所を奪われた人々”と表現した。そうした人々は、“自分個人の判断や行動について、他者からのレスポンスが返って来る”という状況の中に自身を置くことができず、“ユダヤ人”のような集合的属性のみで反応されるしかない。自己との関係が、そうした危機的状況で問題化する。

// references //

none.

track 6 / 自由の奥行き

00:00 / 10:20

// topics //

 李 :  アレント、フーコーに重なりつつ、また離れ…を繰り返し、その距離の変動の中で、自身の問いや思考がずっと記述されていく。この書き方は、ルソーを含む系譜にある。お二人はそうして、それぞれ自己との対話を行っている。そのお二人同士の対話は、どう展開されるのだろうか。

 宇野 :  齋藤氏の著作、『自由』などを読むと、“自由”を巡る議論の奥行きを考える。アレントは、自由についてはっきりしたイメージを持っているが、それについての論は余り展開していない。アングロサクソン哲学、例えば『自由』で取り上げられているバーリンでは、 “消極的自由/積極的自由” という、いわば保守的な議論が行われていたりする。フランスの思想界ではこういった自由の議論を本能的に嫌う。なので、アーレントも含まれ得るアングロサクソン系の思想と、フランスのそれで、自由の発想が全く異なる(この2者間の差異は、丸山眞男の記述にも影響している)。アレントを扱うことと、フーコーを扱うこととを、並行して行っている齋藤氏の著作はこの点で、大変関心を引かれ、頼りになる。

 
宇野 :  フーコーの方は、最晩年に“自己への配慮”に集中してこだわっていた。ニーチェはキリスト教批判の文脈でエゴイズムを批判し、同じくらいの時代に、シュティルナーは“予め与えられた自我”というもののうさん臭さを痛切に批判した。

// references //

齋藤純一, 2005.『自由』, 岩波書店.

シュティルナー,マックス. 1844.『唯一者とその所有』.

track 7 / 自由の2つの議論:アレントとフーコー

00:00 / 14:52

// topics //

 宇野 :  フーコーのいう積極的形式としての自由とは、“他の人々に行使する権力の枠の中で、自ら自身にも行使する権力”のこと。またフーコーが言うには、思考は、行動を決定したり、意味付けしたりするものではない。思考は、行動や反応の形式自体ではなく、そこから距離を取って、それを対象とする。つまり、行動し、反応する自己から距離を取る。至る所で自己を規定してくる権力から逃れ、自由になるために、抵抗するもの。これが思考。そして極端に狭められた、自己という権力圏の中で、むしろ自由を基礎づけるものとしての、“自己への配慮”。これを辿る考古学として、フーコーはギリシアの文献を読み解いていた(=アナルケオロジー"anarchéologie")。

 
宇野 :  アレントは、アイヒマン問題を引き継ぎつつ、“公共性”という語に新しい響きをもたらしている(『革命について』)。アレントは、諸著を通じた論理的一貫性に拘らない人であり、その点も魅力的である。例えば、「政治は複数性であり、他方、哲学は単独のディスクールでしかない」(ハイデガーが念頭にあったかもしれないし、全くなかったかもしれない)と痛烈に批判しつつも、カントを参考にし、“道徳の基礎づけ”に関連させながら、思考-意志-判断を語り、“自由意志”の問題を考える(『精神の生活』)。ここでも素敵なほど大胆に、「ギリシア人は意志を問題にしなかった」と断言し、パウロやアウグスティヌス、初期キリスト教教父たちが、初めて意志を問題にしたのだと語る。だがその意志という問題性は、近代のルソーへ連なりながら、“主権の問題”という、政治的な危険性へと拡張されてきた。こうした意志の次元が、どう判断の問題へ移るのか。この意志論がどうなっていくのか。『精神の生活』をしつこく読んでも、これは実はよくわからない。

 
宇野 :  アレントは、判断について例えば、政治的思考は、美学的判断に似ており、アプリオリで定言命法的な理論を立てられない美学的判断性が、政治的思考の基礎づけに必要である、と言う。こういう発想は、至る所で稲妻のようにやって来るが、どのようにそれを理解したらよいのか、受け止めたらよいのかを、確定するのは非常に困難。それ故、アレントは今も求められる。こうした、思考-意志-判断が、アレントの自己論である。

// references //

アレント,ハンナ. 1963.『革命について』.

アレント,ハンナ. 1977-78.『精神の生活』(未完).

track 8 / アレントの自由:統治から政治へ

00:00 / 20:17

// topics //

 宇野 :  フーコーは統治性(gouvernementalité)を考える中で、生政治も考えており、人民を“生かす/生かさなくて良い”に振り分けながら、統計的対象として客体化する政治を考えていた。一方、アレントは「政治は統治ではない」と大胆に言う。政治が統治や治安の問題であるのは、政治が“政治でないもの”へと吸収されているとき。『政治的省察』では、アレントのこの発想を誇張し、“純粋政治”の語を用いてみたが、これは、ギリシアのポリスで、“各々の誰(who)が他者の前にあらわれ、差異を競い合う、パフォーマンスの場”という意味合い。この政治の純粋性が、そうでないものに侵されてき歴史を、アレントは見ているよう。加えて齋藤氏は、フーコーの“自己への配慮”にネオリベ的危険があるとも、指摘している。権力からの自由論が、“能動的な自己統治”へとつながってしまう危険。アレントが、政治を統治性として考えることに、ほとんどアレルギー的な拒否反応を示しているという点と合わせ、この辺りの齋藤氏の見解を聞きたい。

 齋藤 :  アレントは、自己についての権力の必然性を、“オートマティズム”と言う。ある規範を必然化し、これまでの因果律に自身の思考を組み入れていくこと。対して、そうした因果的規範を非必然性へ押し返し、むしろ“他のように在り得た”、“他のように行為する”、というのがアレントの自由。(これはカント的発想でもある)。統治は、“あのように”ではなく“このように”振る舞うよう、自己と他者に関係するもの。こうした“自己を組織化(organize)すること”に対して、彼女にはある種の抵抗性が生じている。彼女の用語では、knowingは構築的で、経験性を蓄積し、なされる事柄の良し悪しをテストする。これを必然的規範とした自己組織化に従っているだけの人は、ともすればアイヒマンのようになる。逆に自由、thinking(思考)は、こうした自己組織化から距離を取るので、破壊的なものでもある。

(アレントの価値は下がらないが、アイヒマンが実は、筋金入りの反ユダヤ主義者だったことが、最近の研究では知られている)。

 齋藤 : 『精神の生活』内で、思考から判断への移行過程は取り分けおもしろい。その際に、「公共を作っているのは、アクターではなく“スペクテイター(spectator)”だ」と言われる。規範へと閉鎖していく自己を、個々人が絶えず解きほぐす思考の自由が、世界の事柄についての判断をなさせ続ける。この繰り返しが、時間軸を以て、公共性をつくっていく。アーレントの思考はここに賭けられている。

// references //

アーレント,ハンナ. 1977-78.『精神の生活』(未完).

track 9 / 政治に対する距離と、"脱-政治"の伝播

00:00 / 18:00

// topics //

 李 :  齋藤氏はアレントの思考からあえて距離を取り、宇野氏はそれに内在する政治的問いに関心がある。それを横で聞くのは興味深い。アレントは、我々3人と半ば同世代で、問わんとしていることが余りにも生々しく思える。そんなアレントやフーコーが、意志を、神と人の関係性から、哲学的問いとして立て直している議論に入っていくには、我々にとっては、何か別のベクトルが必要。

 宇野 :  アレントやフーコーの例外性は、“政治に対する距離の取り方”を作り出したこと。私個人は、ここにこだわりたい。冷戦以降、政治が路頭に迷うかのようになった。そこで、“政治への近さ”、ドゥルーズなら“政治が至るところにある”というであろうものを、再度考えなくてはならない。政治との近さや遠さ。その距離自体を考えたい。そういう意味で、(選挙に出るというような意味ではなく)、“政治を作る”ようなものを書きたいと、夢として思う。

 
齋藤 :  アレントが批判する“脱-政治”。これは人々を、“もう考えなくて良い、解決済み、コミュニケーションを取る必要がない”という状態にしてしまうこと。そういう意味では、「脱-政治が至るところにある」と言うべき。この状況の中で、「政治が至るところにある」と発する意味は、フーコーの言葉によれば、“問題化”を行うこと。“解決済みとされていたところに、問題がある”。これを至るところで行う。

 李 :  お二人はこれまで、様々な考えを記述してこられた。今回、そうしたそれぞれの考えが、それぞれの発話を行う中で、変異していくような事態が垣間見られた。そういう“とりとめのない”やり取りが起きる場だった。

// references //

池田剛介, 市田良彦, 宇野邦一, 千葉雅也, 2010.『SPECULA 21世紀芸術論 第5回 哲学と政治的なもの』(シンポジウム),  東京藝術大学上野キャンパス(会場).

track 10 / 権力(力)、政治、法の区別性

00:00 / 06:43

// topics //

 参加者 : 政治”がどこにでもある、と、“権力”がどこにでもある、との違いは何か。

 宇野 :  確かに、政治=権力、ではない。だが同時に、政治は、あるときから権力、或いは力、という問題を示し始めた。私個人としては、70年代、取り分け、フランスでそうなったように思う。語句としては、権力、力は、puissance(やpouvoir)。ニーチェの、“力への意志”が問題になるところ。権力への意志、と和訳されることもある。該当するドイツ語は、 Macht。力というより“権力”と訳すと、“制度化、形式化された次元の諸力が関係し合っている”という面が前景化する。政治というと、権利(droit)、そして法、の次元が前景化する。しかし同時に、政治=法、ではない。むしろ“法から政治を引き離して行かなくてはならない”、という思想的流れがあり、私自身もそれに強い影響を受けた。改憲などを巡る法の問題が、どう政治につながるのか。むしろ、憲法問題というのは、政治としては、偽の問題なのではないか。こういう問い方もすべき。また“国家=暴力装置”というな意味とは別に、政治の力関係を考えることも重要。

 
参加者 : “puissance/pouvoir”というのは、スピノザの“ポテンティア(potentia)/ポテスタス(potestas)”の区別に対応しているよう。ポテンティアは、色々な違ったやり方があり得る、という事態においてのもの。ポテスタスは、上からのパワーを受けて、特定のことがなされ得るということ。フーコーの「どこにでも権力がある」っていう言い方それ自身は、むしろ上から目線で状況を見ており、ポテスタス的な感じがある。フランスのアカデミック的な、ある種のエリート性は、やはりある。

 宇野 : “上から目線”っていうのは、フーコー自身も気が付いていて、どっかでやはりそれ自体の批判に転じて行ったようにも思える。

// references //

none.

track 11 / 国家と資本、そして民

00:00 / 13:35

// topics //

 参加者 :  政治とは“何か”、と言わないで考えた方が、むしろ政治というものを言えるのではないかと思える。あえて「政治とは何か」と言うなら、例えばボルシェビズム、多数派工作。冷戦、東西対立的なイデオロギー。あるいは、フランシス・フクヤマの“世界(歴史)の終わり”。そうやって世界というものが終わった空白を、取り合えず、資本主義という地平が埋めている(勿論ロシアもこの流れにある)。またクリステヴァは、“中国は未だ、パワーで考えるため、皆が政治的である”と指摘している。逆に言えば、東西対立性が残っている中国という状況において、人が生きていくには、政治的態度を取る必要がある、のかもしれない。ともかく、(ロシアもソ連崩壊を経て資本主義化へ進むことになる)91年以降の、世界という意味作用の地を占拠する資本主義、という我々の現環境において、しかも国家や民主主義と複雑に関係する、政治。これをどう考え得るのか。

 齋藤 :  まずフーコーもアレントも、相互的な行為を決定する"構造"について論が集中している。そのため、そうした現実的な経済性に真剣に対面し、そこで起きる行為性自体について、実践論として応えられているわけではないと思う。ヴォルフガング・シュトレークという、現代の、ドイツの経済学者がいる。彼は、国家の民が、“市場の民”に仕えている、と言っている。我々は今や、政府をエージェントとし、市場の民(例えば債券保有者)に連なり、その経済性において生存するしかない。例えば、国債を巡る利払いの問題がある。日本は、国債の利払い費が、年間10兆円ほど生じている。そこで再び、政府が国債を発行し、市場の民に購入してもらうことで、時間を稼いでやりくりし、問題を将来へ先送りし続けている。ドイツもフランスも、どこもこうした“利払い国家”になっている。市場の民へも負担を分担してもらうには、例えば、金融資産にもっと税金かける、金融取引にほんの僅かな率で税金をかける…こうしたことが考えられるが、政府にはとてもできない。勿論、一国でやることも不可能。EUも色々と問題はある。だが最早、単にそれを放棄して、1つ1つの国家へと戻れば、各民衆が再び、各々の“国家の民”となる、ということは不可能。こうしたとき、民主的に、我々自身で、市場や経済行為をコントロールするための方法やルートを考える必要がある。そのためには、脱-政治化されているような、金融、経済的なリテラシーを、もっと民衆の間に視覚化して、広める必要がある。

 参加者 :
  例えば、多国間的課税という方式は、各国家間、また各国内の、格差問題を前提として含んでいようが、現実的に実行可能なのか。今日ではむしろ各々の国が格差を含みながらも、一国、一国、と個別的になっていく傾向がある。いわば、“一国資本主義”。ここで、“多国間的”な、政府、経済、の関係をどう政策的に考えたら良いか。

 李 :  税金を含め、資本へのリテラシーやセンシビリティ(sensibility)を取り戻すことが重要。今日、政治への無関心が一般化し、多国間関係や、それを含む人間相互への理解可能性が絶たれている。こういう現状で、資本というものを、色々なところでそれぞれ分節化し、自分たちで発しながら、またそれを読み取っていけるようになることが重要。

// references //

none.

track 12 / 革命批判から、政治-自己の問題へ

00:00 / 17:19

// topics //

 宇野 :  アレントは“政治の砂漠”と言う。20世紀は、絶滅戦争や全体主義など、政治をゼロにする脅威が出現していたが、今日まで続く脅威の1つは、経済。アレントは、“生き延びの政治”を批判した。例えばフランスを例にして、“貧困問題を解決するために、政治的行動を行うと、革命になり、テロが発生する”と批判する。また別の面で、ネグリは、“工場というものが消滅したかのように、資本主義が専ら、情報やサービスによって動く中で、労働条件の変更性が生じており、そこに、革命のチャンスがある”ということを、論じようとしている。近年、経済をほとんど蒸発させるほどの暴力にも似た、情報化、システム化が起きている。それに際して私は、ネグリが言うような革命の理論と、ハイエクのような、ネオリベ的な、経済理論的な自由とを考える中で、自由という“価値”こそを論じたい。

 参加者 :  フリードマンやハイエクの、一種の“選択の自由”とは異なり、(アレントが参照している)カントの自由は、他者を目的とせよ、という定言命法。これは自分自身へ向いたものである。しかしやはり、自分についての格率である以上、これは普遍性を持っていなくてはならない。アダム・スミスも、資本主義の成立条件に、道徳感情論を言う。この普遍的条件が個々に満たされていないと格差がどんどん広がってしまう。そのとき、倫理が介入できるのか、或いはそれを政府が行う必要があるのか、どう行うのか、どう期待できるのか。それを考える必要がある。

 参加者 :  意志の問題で...意志を問題にしたアレントもアウグスティヌスも、転向者。転向者が、違う世界を作り上げるのであって、こういう人間が、意志を持っている。しかしスターリンだって転向者で、その意志が革命を生じても、revolution、つまり“もう一回回る”ことになっただけ。この認識において、“自己への配慮”という問題が出てくる。例えば、ヘレニズムという意味で、崩壊しゆくギリシアで、庭を造って仲間と生きるというエピクロス。また、日光浴のために、アレクサンダー大王にそこを退くよう頼んだディオゲネス。後者は特に、権威や精神を、身体問題へ切り替えた話でもある。それからストア派哲学も、ローマ皇帝が染まったもの。ギリシアもローマも滅んだように、こうした転向性は、滅び行くものの思想。今日の、アメリカもロシアも中国も...現行の諸国家は滅ぶ過程にある。国家自身、古くからのその同一性を再建しようとし、それに失敗し続けながら、徐々に滅んでいく。それを私たちはどう耐え忍ぶか。つまりここに、“自己への配慮”という問題が出てくる。

 参加者 :  スピノザのポテンティアは、“色々なやり方を試す”というもの。既存のものを変える、というより、違うところで違うものを作るという発想。ヨーロッパ史には常に“先住民”が出てくる。それを上から統治する仕方で、土地や国力を拡大する。例えばアメリカ“革命”とは、先住民の統治でもある、という観点を我々は持てる。今、下で水平につながっていく方法、それはリゾーム状かもしれないが、そうしたものをもっと研究すべきだと思う。フィリピンの“村”の自治構造に、バリオとバランガイというものがある。バリオは、道が村内でぐるぐる巡っており、外へ通じていない。バランガイでは、フィリピン政府が任命した村長が、そういった村内に居住する。この二重の在り方をしている。日本の江戸時代の村々も、代官と庄屋とで、二重体制を実現していた。転向や革命、崩壊、と言った事態において、こうした一種の逃げ道も、あり得る。

 李 :  朝鮮半島、韓国でも今、フランスなどの外国へ長年留学していたベテラン研究者たちが、東学思想など、自国の“かつてのもの”を改めて掘り起こし、自分たちの研究と比較しつつ、繋げ直している。そういう試みが最近では積極的に行われている。

 宇野 :  李氏が編集して、高橋悠治氏(=上記参加者「スピノザのポテンティアは...」)との話も載っている『残傷の音』を読むと、受苦の政治、身体の政治、という政治や歴史の見方を持てる。私は、そうした外の思考を、ずっと切実なものと捉え、自分でも行おうとしてきたが、今頃になって政治というテーマをそのまま考えることになった。

// references //

李静和編, 2009.『残傷の音』, 岩波書店.

track 13 / 自己への2つのアプローチ

00:00 / 07:26

// topics //

 参加者 :  フーコーとアレントは共に自己を問題にしているが、その問題化の背景が、それぞれ異なるように思える。この点をお聞きしたい。アレントでは、thinking-思考からの、判断への移行、そして時間軸を持つ世界の維持、という意志の問題が背景となり、“自己との対話”が言われる。フーコーでは、(『政治的省察』第9章を参照すると)、権力と“私”との結合が解かれるとき、そこで自己はどうなるのか、という問いが真に生じると言われる。こういう権力からの自己解放性が、背景になる。

 齋藤 :  アレントの自由という概念は、反-主権性。“主権性の断念”が基礎になり、他者性-複数性を可能にするなかで、自身も可能になる自己、というのが、アレントの自由の論。フーコーは、私個人の理解としては、他者を支配しないために自己を支配する、という論。美的な作品として、自己を作り上げていく、という考え。

 宇野 :  アレントでは、公共性の政治学の基礎づけとして、“自己内対話”がある。ここは連続している。しかし“自由”は、むしろ、その連続性を切断するニュアンスを持っている。つまり自由は、“公共性”から、“自己との対話”を引き離すもの。対してフーコーは、ほとんど公共性、複数性という言葉は使わない。力において、自己を折りたたむ、という言い方をする。ドゥルーズはこれをより図式的に強調して、フーコーの自己論は、「
権力の外で、自己を時間に折りたたんで行く論」だと言っている。こうして見ると、アレントとフーコーの自己論は全く違うもの。ただ、“政治-自己”という問題の立て方自体は共通しており、これはこの2人以外には余り見られない、稀な問題。

// references //

ドゥルーズ,ジル. 1986. 邦訳(文庫):2007.『フーコー』(宇野邦一訳), 河出書房新社.

references

アレント,ハンナ. 1958.『人間の条件』.

アレント,ハンナ. 1963.『革命について』.
アレント,ハンナ. 1973.『全体主義の起源』.
アレント,ハンナ. 1977-78.『精神の生活』(未完).

ベケット,サミュエル. 1953.『名づけえぬもの』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980.『千のプラトー』.
ドゥルーズ,ジル. 1986. 邦訳(文庫):2007.『フーコー』(宇野邦一訳), 河出書房新社.
フーコー,ミッシェル. 1976.『知への意志 (性の歴史1)』.
フーコー,ミッシェル.1984.『自己への配慮 (性の歴史3)』.
市村弘正, 2007.『増補 敗北の二十世紀』, 筑摩書房.

池田剛介, 市田良彦, 宇野邦一, 千葉雅也 , 2010.『SPECULA 21世紀芸術論 第5回 哲学と政治的なもの』(シンポジウム). 東京藝術大学上野キャンパス(会場).

ランシエール,ジャック. 2005. 邦訳:2008.『民主主義への憎悪』(松葉祥一訳), インスクリプト.

李静和, 1998.『つぶやきの政治思想―求められるまなざし・かなしみへの、そして秘められたものへの』, 青土社 .

李静和編, 2009.『残傷の音』, 岩波書店.
齋藤純一, 2005.『自由』, 岩波書店.
シュティルナー,マックス. 1844.『唯一者とその所有』.

宇野邦一, 2012.『アメリカ、ヘテロトピア: 自然法と公共性』, 以文社.