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​宇野邦一『政治的省察』・連続対談

2nd

第2回:2019/08/24 
宇野邦一さんと立岩真也さんの対話  

国家に抗する社会を再構築する手立て

 宇野邦一 Uno Kuniichi 

1948年生まれ。哲学者・立教大学名誉教授。著者に『意味の果てへの旅』『アルトー思考と身体』『ドゥルーズ 波動の哲学』『反歴史論』『アメリカ、ヘテロトピア』『<兆候>の哲学』など。最近の訳書にS.ベケット『モロイ』がある。

 立岩真也 Tateiwa Shinya 

1960年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。社会学専攻。単著に『弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術』、

『造反有理―精神医療現代史へ』、『精神病院体制の終わり―認知症の時代に』、『良い死』『唯の生』、『自由の平等』、

『自閉症連続体の時代』、『人間の条件―そんなものない』など。

概要

あくまで、普通の語彙による現実の記述を、自身の仕事とする立岩氏は、フーコー、アーレント、ドゥルーズ、クラストル...という全く例外的な哲学的人物たちのせめぎ合う『政治的省察』に、何を読み取るのか。

病や障害、医療、を巡る対話の中で、我々の生きている長いモダン(近代)が、1つの政治性として浮上し、同時に、それとは別の、"あって良い政治"の姿、またその条件を、共に問わせていく。それは、この本について、モダンともポストモダンとも言い難い、何か別の認識を開かせてくれる。

A / 00:06:01~00:13:40

00:00 / 07:40

// topics //

 1.  『政治的省察』を読んでまず、「私自身はこういう書き方をしないようにしてきたな」と思った。私が修士学生だった頃、ちょうど、東京大学駒場キャンパスでは、フランス現代思想が流行し、一般にもフーコーの邦訳が出回り始めていた。私が、フーコーを自分で最後に読んだのは20年ほど前になる。そういった思想の語り方や語彙感覚に伴う、独自の気分はとてもよくわかるが、私自身は、あくまで“平凡に”“普通に”ものを考え、書くということに努めてきた。

 2 また『政治的省察』は、“国家”の問題について、レーニン(やマルクス)を参照している。レーニンは社会の理念として、“各人が、その能力に応じて働き、それによって何かを得る”、というものを構想し、夢想していた。私は、この理念自体は全く正しいと思うが、しかしそのまま実現はできない。ではどうするか、その全き実現の代わりに、何をするか。これを考えるべきだと思う。

 3 私自身のスタート地点は、“持てる人”と“持たざる人”とがいる中で、上記2のことをどう考えるか、批判できるか、ということ。つまり能力主義という近代性を(決して終わったものと扱わず)、どう捉え、考えるか。これは、レーニン(やマルクス)から続く問題を、独自に引き受けて展開するフランス思想と、スタンスとしては重なるところ。今は、こういった社会の“大きな見立て”を、コンパクトにまとめるものを、書きたいと思っている。

// references //

none.

※ 内容面に、比較的深く言及された書籍のみ表記。

※ 洋書の邦訳書については、1つに特定できるもののみ表記。

※ 邦訳書が存在しない書籍は、原題(アルファベット)で表記。

C / 00:20:50~00:32:43

00:00 / 11:53

// topics //

 1.  B3で上記したような思考を追う、1つの糸口となるのが、フーコーの“自己への配慮”。『政治的省察』では、“政治的思考-自己への配慮”というつながりを、フーコーに読み取り直した。ただ、そうして本を書くことで、私自身は実際何をしたのか。自分でもそれがわかりきっていない。そこに対話の必要が生じている。立岩氏が、“私的所有権”の議論を行うとき、そこにもやはり、“自己を所有する”、“自己決定する”という、上記の様な哲学的場面に触れる思考がある。

 2 私が『政治的省察』から受け取ったのは、「政治があった方が良い」という前提。レーニンも吉本隆明も、国家は小さくなり続け、「消滅した方が良い」という見解(こちらに準じる考えが、いわゆる左翼)。私個人は、政治、権力、国家は必要で、かつ、「可能な限り小さい方が良い」という見解。「政治があって良い」のなら、それはどんなものとしてなのか。この点、宇野氏はどう考えるのか。

 3.  私自身はアーレントの考えをかなり参考にしている。“誰が(who)”という交換できないものが、複数性においてせめぎ合い、対話する、パフォーマンス。これがアーレントの政治。しかし考えたいのは、そうしたせめぎ合いの中で、“何が”連鎖して行っているのかということ。これが自己という問題圏となる。

 4.  立岩氏の本で、非常に新鮮だったのは、ポストモダンと言われるものを、“能力主義に逆行するもの”と捉えている点。立岩氏の『不如意の身体』では、ロールズの正議論が批判されている。ロールズのそれは、“正常な思考能力を以て、社会に積極的に参与する者”のみを、個人と見なし、その個々人のための論である。つまりその論は、能力を持たない人々を最初から意図的に蚊帳の外へ置いている。ロールズと同世代のフーコーは、『狂気の歴史』、『監獄の誕生』を書き、権力論を展開した。またドゥルーズ-ガタリも、『千のプラトー』で、マルクス主義を、“白人、成人、男性”を基準にしかしないものと、強く批判しつつ、マイノリティや民主革命の論を展開する。こうした仕方で、能力主義への批判性自体、彼らにも共有されており、これは一種の政治学的問題でもある。

// references //

立岩真也2018『不如意の身体―病障害とある社会』青土社.

ドゥルーズ,ジル1980『千のプラトー』.

E / 00:44:33~00:51:15

00:00 / 06:42

// topics //

 1.  立岩氏は、最近の相模原障害者殺傷事件について、本を書かれている。あらためて、そのことをお聞きしてみたい。

 
2 あの事件の被告は、“これが正しい”という原理と、“社会がこれからだんだんと大変になっていく”という予感とを合わせ持っていた。そういう意味では、モダンが続いている、普通の人(大量殺人という行動に至ること自体は普通でないとしても)。モダンとしての原理(principle)、能力主義は、“たくさんできる人がたくさん報酬を得る”というような、全く普通のことでもある。この普通さは、最早、原理として認識できない。この“普通”を問題にすること。それも、“普通でないもの”への批判原理としてではなく、普通という状態自体を問題にすること。これが重要。その意味で、やはりロールズは、こういった普通さが無自覚に洗練され、理論化される様を見事に見せてくれる、重要な典型。そういったものを、(ポストモダン的な語彙や論法を用いるのではなく)、その普通さと同じく、普通の分析を通し、形而下的なやり方で批判していくことを、私は自覚的に行っている。

// references //

立岩真也 杉田俊介2016『相模原障害者殺傷事件-優生思想とヘイトクライム』青土社.

G / 01:04:00_01:16:11

00:00 / 12:12

// topics //

 1.  宇野氏はちょうど最近ベケットを新訳されている。アーレントとベケットがどうつながっており、また、どうつながっていないのでしょう。

 2 “それがつながっている場所がどこかにある”ということ自体はわかる。また、アーレントが、政治性から色々取り去り、最後に残ったものを「政治」と呼ぶこと。これ自体は理解できる。しかしそれを、“これは政治ではない”の繰り返しではなく、“これが政治である”と積極的な仕方で行えるのか。例えば、“無為-政治”と言ったとき、異質な者どうしで集まり、何らかの結果を目指すことなく、ものを言い合うということ。この無為性は、何もしたくなくて、1人で家に引きこもっている無為性と、一体何が異なるのか。後者ではなく前者を積極的に“政治”と肯定させるものは何か。

 3.  立岩氏の本に『人間の条件-そんなものはない』というものがありますが。

 4 実は、アーレントの『人間の条件』を一行も読んでおらず、そのタイトルは編集者とのやり取りで決まったのが、肝心なのは、「そんなものはない」と言ってしまった後に、“無能であってもつつがなく生きていける状態”が来るべきということ。だが、人々が集う中で、そうなっていくには、どうしても何か強制力が必要。それを最低限行う権力が必要であり、それを持つ国家が必要(今の国家が8割程無駄なことをしているとは言っても)。こういうことを私は考えるとき、普通でつまらない言葉遣いで行っている。そうではない(ポストモダン的思想のような)考えと、私の考えは、どのくらい同じで、またどう違っているのだろう、という疑問を時折持つ。

 5.  アーレントの思想の、最大の動機となっているのは、全体主義。本人もそれによって、アメリカへ亡命することになった。“全体主義ではないもの”として彼女は、公共性、複数性、パフォーマンス…と幾つかの、無為性のモチーフを挙げてはいる。これが政治。これは最悪の政治、政治の砂漠を避ける。(対して“政策”は目的を設定してのもの)。

 6 そのモチーフはわかるのだが、“最悪へつながっていく政治”は、この世から消えることはない。ここでどうするか。形而下の政治をどうやって最悪でない方へ仕向けて行くべきか。全体主義では“ないもの”という否定的仕方ではなく、それを肯定的に“こういうものである”と形而下のもので示せるのか、示すべきなのか、私個人はまだよくわからないでいる。

// references //

立岩真也2011『人間の条件-そんなものはない』イースト・プレス.

I / 01:22:37~01:39:30

00:00 / 11:56

// topics //

 1 フーコーには、「かくも単純な悦び」と邦訳される文章にあらわれているが、不思議なところがある。(宇野:安楽死志向のようなものがある)。その傾向は嫌いではない。フーコーの何がそうあらわれているのかはわからないが。時間が取れたら、そこは考えてみたいことではある。

 2.  フーコーは生-政治について、数ページ書いただけだが、それがとても影響力を持った。ただ必ずしも、生-死に関わる問題だけではなく、むしろ統計学、医学が、近代のある時点で新しい段階に入ることで、政治が明確に、“生命”(病-健康)を“統治の対象”にし始めたことが主題だった。(フーコーの安楽死傾向に)加えて、ドゥルーズも、ヴァージニア・ウルフや、ヒュームを引用しつつ、明確な自殺肯定的理論を書いている(※)

 3 個人的には、“自死の肯定”(安楽死肯定論)という道筋はあって良いと思う。ただ、その「良い死に方」と皆が言っているのは何なのか、という問題。これはやはり、つまらない、普通の、現に起きている次元で問うべきで、また、それに応じて、“つまらないもの”とは実際何なのかを分析し、書く必要がある。

 4.  最近は、出生前診断が当たり前になってきて、優生学的な医学的価値観が、それと認識されずに一般化してきている。ここには、アーレントが全体主義性として批判したものが、戦後70年を経た日本で、別のかたちで反復して来ているのではないか。技術の進歩と全体主義の関係、または、全体主義というもの自体について、立岩氏はどう考えるでしょうか。

 5 全体主義の定義については、それを用いる人間に聞くしかない(私自身はほとんど用いない)。そして“技術(の進歩)”という問題については、それを何か現代的な新しいものと扱うのではなく、あくまで、“モダンの続きの普通さ”として考えたい。それが全体主義と絡む点を考えるなら、例えば、“移民排斥運動”の問題について。敢えて言えば、移民問題の解決策として、移民自体を排斥してしまう、という方法は合理的ではある。しかし現実に生きる我々の自己行為としては、やはりそれは許容できない。グローバリゼーションの加速が叫ばれ、また、マルチチュード、人民、などの諸用語が展開される現代で、私はむしろ、どんな利害関係が現実に絡み、“移民問題”なるものを存在させているのか、ということを、上記のような用語を用いずに分析すべきと思う。こういう普通の分析から、移民問題というものを、現に存在している状態とは“違い得るもの”として考え、それを基に、許容できる我々の現実的行為を考えるべき。

// references //

フーコー,ミッシェル1979「かくも単純な悦び」邦訳:2001『ミシェル・フーコー思考集成8 政治・友愛』(蓮實重彦監修) 筑摩書房 所収.
西谷修1996『不死のワンダーランド』講談社.

※ドゥルーズ,ジル「」(邦訳: 『』所収)(仮).(確認でき次第記述).

K / 02:00:50~02:04:26

00:00 / 03:36

// topics //

 1.  脳の可塑性が無い認知症者について、我々はどうしたら良いのか。また当人はどうしたら良いのか。

 2 今日での一般的な見解は、過去から現在、現在から未来、へと人格の“時間的連続性”が成立している場合、その人自身が、その人自身について、何らかの決定を下すことが認められる、というもの。その連続性が認められれば、その人が想定する“未来の自身の像”について、その人自身が決定可能であると、社会的に認められる(一般的には)。勿論、この未来の像は、現在の自分が行っている想定物であって、実際にそのまま到来することはない。

 3.  その場合、未来の自分を想定している者の現在の人格は、確かに、過去の自分と連続的であるかもしれない。だが、未来の自分は、現在から“想定されている”だけで、現在と確かな連続性を持っているわけではない。つまり“過去→現在”は連続的だが、“現在→未来”は非連続的なまま。連続性なるものが人格に成立しているとしても、それは“過去→現在”についてのみ。よって、“未来の像について、当人が決定を下すことを、認め得るか否か”ということの基準に、人格的連続性を持ってくること自体が、既に問われねばならない問題。(そこには、“現在→未来”までも連続性として扱う観点が、無批判に立てられてしまっているのだから)。

// references //

none.

M / 02:16:10~02:21:30

00:00 / 05:21

// topics //

 1.  脳の可塑性は、“可塑性が皆無である”という想定も含まれた上で、それでも言われている。もう二度と回復しないかもしれない他者(認知症者)に、どう関係し、どういった注意を向け得るのか。マラブーの提示しているのは、こういう仕方で浮上する、他者との関係性を新たに構成するための問題。(マラブーは精神分析を下地にしているので、これは、可塑性が皆無であるかもしれない他者を前にしての“転移”、を考えることだとも、語られている)。

 2.  高橋悠治氏のおっしゃった(上記Lの4)、“ギリシアのポリスを原型とするアメリカ”という理念が、明確にあらわれているのは、アーレントの公共性。私の本の中では、ポリティクス、ガバナンス、というような定義を、政治について行っているわけではないが、このアーレントの議論を重要な政治性として再考している。またもう1つ、重要な論として、クラストルの“国家無き社会”を再考している。これは、「先住民の社会は、国家形成へ至らない未熟なもの」という認識を覆し、先住民の社会はむしろ、「国家形成性を細心に退け続け得た社会であった」と説明する論(それは、国家の構成員=個人、とは別の発想を取る)。高橋氏が学校の子供たちの例でおっしゃった“ケア”というものと、こちらは通じる。アーレントとクラストルはこうして、互いに全く異質な仕方で、政治についての重要なヒントになっている。

 3.  よく、クラストルは、『国家に抗する社会』で、「彼が見たいものを、先住民の社会に見ていた」と言われる。その批判はむしろ、クラストルが近代国家の外で、先住民の社会として「あった」と語ってしまったある種の政治性が、実際には、いつどこにでも、今日の社会の中にでも「ある」と言うべきものだった、という意味で正しい。(宇野: 私もそう受け取りたい)。

// references //

クラストル,ピエール1974『国家に抗する社会』.
マラブー,カトリーヌ2007, 邦訳:2016『新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』(平野徹訳) 河出書房新社.

B / 00:13:40~00:20:50

00:00 / 07:03

// topics //

 1.  レーニンに関しては、学園坂スタジオの講義で1日割いて、宇野氏に取り上げて頂いたことがある。この点、あらためてお聞きしたい。

 2.  まず、この『政治的省察』の問いは、「政治はどこにあるのか」ということ。日々のメディア、政治家の発言、それについての議論、葛藤…に政治はあるのか。レーニンや、その周りの人々、彼らの世代の人間が、何を考え、何をもたらしてきたのか。革命の一応の実現を挟み、それらは、私たちの世界について、何をどうしたのか。そうした問いの中にありつつ、現代の日本の状況下で、むしろ「政治がない」という私個人の強い思いがあり、それがこの本を書かせた。ここに、今日の日本で、“憲法(改正)”という仕方で浮上してきた、法の問題が絡み、“民主主義”を考えることになった。

 3.  文学者たちは、政治について、政治的思考方法を取ることなく、それとは全く別の問い方をする。この問い方へ、思想からつながるための鍵として、アレントの“公共性”や“複数性”がある。アレントはそれらを“自己”の問題とし、そして、政治が何たるかを明らかにするもの、ともしていた。ここを私は書き続けている。

// references //

none.

D / 00:32:44~00:44:33

00:00 / 11:51

// topics //

 1.  Cで先述した、能力主義への批判として展開される政治学とは、どういうものなのか。フーコー(やアルトー)が医学界の権力を批判するときのような態度とは異なり、立岩氏の特徴は、あまり政治的言語では語らないこと。「身体、生命は、その人が所有しているものなのか?」「生命や身体への決定を下すのは、絶対に自己であり得るのか?」こうした決定性の問題を、(政治ではなく)倫理という枠で捉え、代理母や終末医療、臓器移植、といった場面に長くつきあうように考え続けている。あらためて立岩氏の中での、フーコーなどのいわゆるポストモダンと、能力主義への批判性との、つながり方を聞いてみたい。

 2 学問は、“何か新しいもの”を持ち上げるように 、表明したがるところがある。80年代以降のそれとして、“ポストモダン”があるが、私自身は、モダン(近代)が終わらず、ずっと続いて今日まで至っている、と認識している。この近代性は、能力主義。ロールズの考え方は、こういう“近代性-能力主義性”が全く典型的に見て取れる事例として、とても重要。ポストモダンが流行する前、1970年代のマイナーな社会学は、かなり素朴な言葉でモダンに対する懐疑を語っていた。私としてはむしろ、こういった普通の言い方で、モダン、能力主義の存続性を批判し、考えることを心掛けている。

 3 “生-政治”のような社会学的理論の展開性より、むしろ今日、現に作動している社会性を見ることを基本として、“あって良い政治”をどう考えるか。くだらなく、ささやかで、悲しく、また一生懸命な、細かな次元が、一挙に組み合わさり、政治という様相を取る。それを組み合わせる原理となっているのが、能力主義。“身体-政治”の問いが始まるのは、「こういう組み合わさり方をしなくてもよかったのではないか?」、「もっとましな生き方があったはずなのではないか?」、という局面。

 4 実は『監獄の誕生』が書かれたときには既に、量刑についての議論は蓄積があった。その点から読むと、フーコーの論は、とてもオーソドックスな意味で正しい。ただ、どういう人々が、どういう利害性から、監獄といったものを組み上げていったのか、という観点で書かれてはいる。

// references //

フーコー,ミッシェル1975『監獄の誕生』.

F / 00:51:15~01:03:59

00:00 / 12:45

// topics //

 1.  フーコー、ドゥルーズ、デリダ...たちは、自分ではポストモダンという言葉を使っていない。ただ、19世紀までの考え方を強く批判する姿勢は共有されている。フーコーは、「我々は長い近代(モダン)を生きている」とはっきりと言っている。ポストモダンという言葉を巡って、各々が何を考えているのか、近代をどう考えるか。これをポストモダンという言葉とは別に、慎重に考える必要がある。

 2 宇野氏の『単なる生の哲学』が出版された後で、私も『唯の生』という本を書いた。ただ、“無為”、“何もしていない”、“何もできない”、ということをテーマとして持ち上げてしまうと、嘘っぽくなってしまう点は否めない。その嘘っぽさを受け入れつつ、考えるとき、現れてくる政治とは何か。『政治的省察』では、ベケットの方角と、アーレントの方角とで、かなり肌触りの異なりを感じる。この隙間に、どういう政治が書かれているのか。

 3.  ベケットは、ほとんど病者の立場から出発している。無為というものを決定的に経験して、彼は書いている。アーレントの方は、“政治は統治ではない”という態度で、中央集権制に対し強い批判性を持っている。この点で彼女は、レーニンを非難し、(ローザ・)ルクセンブルクを評価する。ただ、シオニズム、ユダヤ人問題の中を、アーレントがどう生きて、それが『全体主義の起源』の記述にどうつながっているか、また晩年の『精神の生活』においてカントをなぞり記述された、思考-意志-判断、はどのように、政治の根本をなしているのか、ということなど、まだよく理解できていないところもある。“待つだけ”というベケットの無為の追求性を、歴史や社会への強い批判として読み取ることが、果たして、このアーレント理解へと何らかの仕方でつながり得るか?(そんな疑問状態として)、この2人は、別々でつじつまが合わないまま、しかし無関係ではない、という状態にある。

// references //

宇野邦一2012『アメリカ、ヘテロトピア: 自然法と公共性』以文社.
アーレント,ハンナ1973『全体主義の起源』.
アーレント,ハンナ1977-78『精神の生活』(未完, 遺作).

H / 01:16:11~01:23:27

00:00 / 10:29

// topics //

 1.  全体主義でないもの、そうでない政治、というのは、フーコーとアーレントそれぞれ、明言はしている。フーコーは、「権力を避けること」と言う。アーレントはむしろ、互いに拮抗するような状態として、「権力を構成すること、作り出すこと」と言う。障害者などの生は、諸援助によって成り立っているのだから、勿論国家は必要。“国家が必要である”という問題は、アーレントやフーコーが、政治について言っていることと違う問題、というわけではない。そこで立岩氏の興味深いところは、障害者などの問題を、政治問題に還元することなく、むしろその外部に考えている点。またその上で、政治との関係を考える点。

 2.  20年ほど前に、大学で、他の教員と共に、“死生観”をテーマにした共同授業をもったことがあった。ちょうど、臓器移植の問題が浮上していたころで、まだその専門家は余りいなかった。そこで授業では、キリスト教や仏教を専門とする学者たちで、「臓器移植は宗教的には罪にあたるのか」という議論を専ら行った。私自身は、やはりそれは現実の権力問題としても、つまり“医療、政治、保険会社…の絡む問題”としても、議論すべき、という論旨でそこに介入していた。また当時、私の友人で仏文学者の西谷修も、臓器移植について各所で述べていた。フーコーは「死なせる技術」という言い回しを用いたが、西谷氏は臓器移植に関して、「死なせない技術の介入」という表現を行っていた。そしてベンヤミンが「暴力批判論」で問うているのは、我々は、「生命が大事、生命を尊重する」と言うことで、実際、生命について何を言っているのか?、ということ。こういった発想を思い返しつつ、私自身、フーコーへの応答性を考えている。

 3 私が学生の頃、“生かす権力”の論はデフォルトだった。しかし、生かす権力と殺す権力(これが近代以降消滅したのではなく)との、関係性はどうなっているのか。私自身、これが問題だと思っていた。今日でも、フーコーの生-権力論は、“やたらと人を生かすだけ”という論に援用されるきらいがある。つまりそれは、医療、機械、人工物、によって、現に生きている人々を、“死に追いやる言明”でもあり得る。つまりここでは、殺す権力という近代以前のものが、ポストモダンの語彙使用の下で、導引されてしまっている。こうした点を分析、記述しないと現に働いている事物、これから働くもの、を捉えることができない。

// references //

ベンヤミン,ヴァルター1921 「暴力批判論」.

J / 01:40:00~01:52:56

00:00 / 13:17

// topics //

 1.  (立岩氏の今のお話しを自分なりに言い換えると)、移民排斥について、現実の我々の中で生じる、「そんなことはできない」というこの強い反抗性は、一体何によるのか。“あって良い政治”、いわば我々の中の、“政治の条件”が、そこで問えるのではないか。宇野氏は、この“政治の条件”があるとしたら、どんなものだと思われるでしょうか。

 2.  病や障害、認知症、という我々にだっていつでも起き得る問題について、哲学や文学の観点からだと、やはりニーチェにあらわれた、“病と創造の関係性”に興味が湧く。この創造性について、最近ではしばしば、認知症を患った脳が、可塑性を発揮し、自ら回復する場合がある、ということが言われる。オリバー・サックスはこうした症例を収集して示していた(勿論、可塑的でない症例も多い)。またカトリーヌ・マラブーというフランスの哲学者は、認知症になった実母のそばで、「苦しんでいる人々は何を苦しんでいるのか?」と問うことが最も基本的な問題である、と書いていた。この問いは、“他者”という問題の究極のところでもある。政治という問いも、究極的にはここに行き着く。立岩氏は、レヴィナス流の絶対的他者性の論を警戒すべき、という文章を書いていたと思う。このマラブーの問いや、脳の可塑性の問題は、そうした立岩氏の考えている問題性と、私自身が考えている問題性とが交差するところであり得る。

 3 私が学生の時にいつも言われていた論を素朴にまとめると、身体を拘束しようとしたのが近代で、逆に今日的な行為は、身体を解放するものであるべき、という話だった。ただ、“解放”を生きることができない人や、その身体性、または、それを望まない、“ほっといてくれ”という身体性もまた存在する。脳の可塑性を示す事例があることは、確かに事実。ただしばしば、そうした“個々の事例がある”というだけの可能性の論が、信頼できる根拠を獲得することなく、現に生きている人への強制力として圧し掛かることもある。この強制力としての可能性に、“ほっといてくれ”という身体性の反抗が湧き起こるところ、ここに、ベケットやカフカの文学が通じていると思う。

 4.  確かに、ベケットの一連の作品や、そこでの登場人物の行為には、政治の条件、可能な政治、そういったものへのつながりを覚えます。

// references //

マラブー,カトリーヌ2007, 邦訳:2016『新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』(平野徹訳) 河出書房新社.

L / 01:40:00~01:52:56

00:00 / 11:43

// topics //

 1.  また、認知症の検査を受ける当人自身が、自分の未来を想定するところに、周りの人たちの想定が入って来ることもあるのではないか。この場合、当人が想定する未来の像と、周りの人たちがその人について想定する未来の像とが、同一のものだとは誰も言えない。

 2 その人の未来の像が、周りの人たちの想定によって支配的に規定される、ということは実際大いにある。私自身、周りの人たちの想定が、支配的なまでに、当人の未来を規定してしまうことは、差し止めるべきだと思う。

 3.  そう思うことが、またちょっと問題を生じる。というのもその思いは、“自分については、他者ではなく、自分自身で決定するべきである”、という近代的理念へ向いているのだから。つまりそれは、自己決定権という権利を保持している個人のみを、人と見なすような、近代的個人の理念を基盤としている。他方で、前-近代的には、個人について想定し、対処することは、むしろ“周りの人の義務”。例えば、学校の1クラスには、1人は必ず、どうしようもない子がいる。その子を、皆でケアしている。もっと言えば、義務とも権利とも規定されないまま、皆で何となくその子をケアしている。昔から、ある共同体の中で、いわゆる痴呆症のような人が大事にされている、という状態はある。

 4.  権利や義務という言葉の問題と言うより、どういう状態を想い描いているのか、という問題。前-近代的には、“当人”はそれ自体で1つのネットワークの状態。それは意識的でなく、言葉によって定義されることもないが、周りの人(別のネットワーク)と重なりつつ、現に動いている。この状態を、「政治」と呼ぶこともできる。この政治は“ガバナンス”。対して“ポリティクス”の政治は、ギリシアのポリス運営を理想的モデルとする。それに倣った典型として、例えば、(独立を果たして間もない頃の)アメリカの連邦性を置くような仕方で、我々は、近代西洋的な考えに入ってしまう。そうした考えからの出口が、(前-近代性と見なされている)“当人への周囲の人の何気ないケア”に見出し得るのではないか。そうした、言葉にならない運動が必ずある。

 5 そういう“ケア”という政治性は、あらゆる時代に存在したし、今日にも存在すると思う。そして、そうしたネットワーク状の政治性が、表に出てくるのを妨げ、弱体化させる力も、常に働いている。私の仕事はいつも、この弱体化する方の力を分析し、記述すること。ささやかにでも、この記述行為が、“弱体化力を弱体化すること”につながれば、と思っている。

// references //

none.

N / 02:21:50~02:26:33

00:00 / 05:03

// topics //

 1.  クラストルには、「国家に抗する力」のように語られた、言葉にはならない運動。そういう政治性は立岩氏も現実にあるとはおっしゃっていた。では、それを引っ張り出してくる、言論とは一体どんなものか。例えば、現実の、普通のものの調査や分析に終始するような記述でも、それに何らかのポエティクス(poetics)が漂っていれば、それは一種の吸引力を確かに持つ。

 2.  ネガティブなもののポエティクス、というのがあると思う。何もない空間が、ブラックホールのように、周りの色々な組織を吸引する。今の場合、“可塑性の無い脳”がこの何もない空間になり得る。

 3 ロバート・マーフィの“The Body Silent”という本がある。彼はコロンビア大学の人類学の教授だったが、自分が四肢麻痺にかかり、身体が動かなくなっていくプロセスを、その本に書いていた。その最後の方で、ベケットの『マーフィ』が引用される。私は、遥か以前に読んだベケット『マーフィ』の情景を、再び覚えた。何もない部屋の隅に、頭蓋だけが、1つ置いてある。何かを見ている、と言えば見ているような。それだけなのに、何かが部屋の中でいつも動いているような感じ。そういったもの(ネガティブなポイエティクス)は確かに、『ボディ・サイレント』にも、『マーフィ』にも、あったように思う。

// references //

マーフィ,ロバート1987, 邦訳(文庫):2006『ボディ・サイレント』(辻信一訳) 平凡社, 解説:立岩真也.
ベケット,サミュエル1938『マーフィ』.

references

アーレント,ハンナ. 1973.『全体主義の起源』.
アーレント,ハンナ. 1977-78.『精神の生活』(未完).
ベケット,サミュエル. 1938.『マーフィ』.
ベンヤミン,ヴァルター. 1921.「暴力批判論」.
クラストル,ピエール. 1974.『国家に抗する社会』.
ドゥルーズ,ジル. 1980.『千のプラトー』.
フーコー,ミッシェル. 1975.『監獄の誕生』.
フーコー,ミッシェル. 1979.「かくも単純な悦び」邦訳:2001『ミシェル・フーコー思考集成8 政治・友愛』(蓮實重彦監修), 筑摩書房 所収.
マラブー,カトリーヌ. 2007. 邦訳:2016,『新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』(平野徹訳), 河出書房新社.
マーフィ,ロバート. 1987. 邦訳(文庫):2006,『ボディ・サイレント』(辻信一訳), 平凡社, 解説:立岩真也.
西谷修, 1996,『不死のワンダーランド』, 講談社.
立岩真也, 2011,『人間の条件-そんなものはない』, イースト・プレス.
立岩真也, 杉田俊介, 2016,『相模原障害者殺傷事件-優生思想とヘイトクライム』, 青土社.
立岩真也, 2018,『不如意の身体―病障害とある社会』, 青土社.
宇野邦一, 2012,『アメリカ、ヘテロトピア: 自然法と公共性』以文社..