music dance poetry arts and philosophy
学園坂出版局よりお知らせ
・映画監督・坂上香さんの講演会「対話するってどういうこと?」を開催します。(8/22更新)
・ユリコさんのエッセイ風論考「家族について考える」6を公開しました。(11/21更新)
・2023年12月1日、小笠原もずくバンドライブを開催します。(11/11更新)
・2022年9月10日『生かされる場所』のCD発売記念ライブが開催されます。詳細はこちらをご覧ください。(8/5更新)
・「思想ゼミ」宇野邦一さんの連続講座を「器官なき身体と芸術」vol.15(2022年2月)でいったん終了します。アーカイブ視聴のお申し込みは受付中です。(3/13更新)
かつて古代ギリシャでは、詩は詩人が音楽とともに語り、歌っていた。
そこでは、どうやら詩と音楽の境界線は曖昧なもので、
いまほど分化していなかったようです。
コラ(ハープ)を弾きながら神話を語るミュージシャンが現代のアフリカにいます。
R.ジョンソンのような、ユーモラスな韻律を聞かせるブルースのようなジャンルもある。
実は現代でも、詩と音楽は決して異なるものではなく、
同一の地平にある表現のかたちなのでしょう。
ひとりひとりの生が徹底的に計量化され数値化される今日、
詩人や音楽家という存在は、まるで絶滅していった恐竜のようです。
かつての表現活動から生み出された作品は、いまや誰もが共有可能であるような、
単なるデータになってしまった。
けれども、事実、詩は書かれ、読まれ、語られている。詩人は剥き出しの生を営み、
音楽家は時間の韻律とともに闘争ー逃走する。
この小さな詩のラジオ/図書館=詩のジュークボックスは、細分化されてしまった文芸や、
現代の管理社会・消費文明に対して、ひっそりと投石を試みるものとして企画されました。
あるいはその礫は別種のウィルス、言葉の、詩のウィルスとも言えるかもしれない。
わたしたちはいま常に崖線に立ちながら、
どこへともなく、異議申し立てをうたわずにはいられません。
歌うは訴ふだとかつて歌人が書いたけれど、
2020年のいま、うたうこととは何だろうと改めて問いかけてみましょう。
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詩のジュークボックスは2020年5月よりリリースします。第2弾、第3弾をただいま製作中です。
生かされる場所
季村敏夫(朗読) + 澤和幸(ギター)
track 01~04 : 未発表 (track03のみ改題「あやめ草」『河口からVI』2020)
track 05 : 個人誌『河口からIV』2018
track 06 : 『河口からV』2019
track 07 : 『ノミトビヒヨシマルの独言』原題「帰郷」
track 08 : 『木端微塵』( 季村敏夫 2004 書肆山田)
track 09, 12, 13, 14 :『ノミトビヒヨシマルの独言』( 季村敏夫 2011 書肆山田)
track 10 :『膝で歩く』( 季村敏夫 2014 書肆山田)
track 11 : 読売新聞夕刊 2019年11月29日
profile
澤 和幸 ( さわ ・かずゆき )
65年愛媛県に生まれ、山口県で育つ。
84年に上京、多摩美術大学でブラック・ミュージックやジャズと出会い、さらに音楽に没頭。
卒業後は雑誌「ジャズライフ」の編集を続けながら、世界中のジャズメンから直接的な影響を受けてきた。
現在ではフリーとなり、浅川マキ、荒巻茂生(b)の「ARAMAKI BAND」、港大尋のソシエテ・コントル・レタに参加している。
季村 敏夫 ( きむら ・としお )
1948年京都市生まれ。 古物古書籍商を経て現在アルミ材料商を営む。
著書に詩集『木端微塵』(2004年、書肆山田、山本健吉文学賞)、 詩集『ノミトビヒヨシマルの独言』(2011年、書肆山田、現代詩花椿賞)、 『1930年代モダニズム詩集ー矢向季子・隼橋登美子・冬澤弦』(2019年 みずのわ出版)『生者と死者のほとりー阪神大震災・記憶のための試み』(1997年、人文書院、 編著)、 『山上の蜘蛛―神戸モダニズムと海港都市ノート』(2009年、みずのわ出版、小野十三郎特別賞)、 編集『神戸モダニズム』(都市モダニズム詩誌、第27巻、ゆまに書房)など。
『詩村映二カツベン詩文』(2020年6月出版予定)
recorded at gakuenzaka studio, Jan.2020
poetry : kimura toshio
music : sawa kazuyuki
recording engineer : minato ohiro
artworks : izumi juntaro
produce : tanimori syun
release : May 2020
ライナーノーツに代えて
詩の朗読と音楽とのコラボレーションは楽ではない。
詩、とりわけ自由詩/現代詩は奔放で逸脱していて、ときに難解でさえある。
音楽はまた、まったく別のベクトルのはたらきを持つ。コードに囚われ、ときに逃れる。
音色がそのままメロディだったり、呼吸がそのままリズムだったり。
詩と音楽は、さてどこで出会うのか。
このレコーディングはほとんど奇跡的と言ってもいい出会いだったかもしれない。
季村敏夫の、祈るでもなく、唱えるのでもなく、ただただ呟かれる詩。
澤和幸の、歌うでもなく、刻むでもなく、流れ出る、滲み出る、ただそれだけのようなギター。
この二人の、お互いがどこか遠慮しながらも、それぞれがそれぞれの前で裸になるその仕方は、
今まで見たことのないような光景だった。
今日、詩人や音楽家の活動はますます厳しい。それで食うなどと考える方が間違っている、
そんな風潮に満ちているこの日本という国で、日本語と、日本語そのものとどう対峙していくのか。
暴力や収奪の歴史を内包するこの言語と、どのように共存することができるのか。できないのか。
詩や音楽から、そんな問いかけをしてみよう。
ある意味そんなどん底の地点から、どんな地平が開けるか。
この作品集を皮切りに、様々な詩人・アーティストの声+音を収めていくつもりだが、
果たして、この投壜がどこの誰に流れつくのか、楽しみだ。