​宇野邦一『政治的省察』・連続対談

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​第1回以降順次公開予定

第0回:2019/06/22 
宇野邦一さんと田村均さんの対話

『政治的省察』を読み解く

「人間は事実共同的な存在であるのに、人間を共同的にしている力を基礎づける手立てが存在しない」。『政治的省察』を読んだ田村均さんのこのコメントにハッとしたという宇野邦一さん。このやりとりをきっかけに急遽決まった対談です。約30年ぶりに再会を果たしたお二人による、3時間以上に及ぶトークイベントとなりました。

 宇野邦一 Uno Kuniichi 

1948年生まれ。哲学者・立教大学名誉教授。著者に『意味の果てへの旅』『アルトー思考と身体』『ドゥルーズ 波動の哲学』『反歴史論』『アメリカ、ヘテロトピア』『<兆候>の哲学』など。最近の訳書にS.ベケット『モロイ』がある。

 田村均 Tamura Hitoshi 

1952年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。元名古屋大学大学院文学研究科教授。専門は、ロック、ヒュームなど、イギリス経験論。自己、虚構、意志、などについて、多数の論文を執筆。最近の単著に『自己犠牲とは何か』、

訳書に『フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―』(ケンダル・ウォルトン著)。

以下は、2019年6月22日に学園坂スタジオで行われた対談イベントの録音ファイルです。全3時間に及ぶため18トラックに分割して収録しています。対談の要約も合わせてご覧ください。(全6ページ)。

track 1 / イントロダクション
00:00 / 12:58

//summary//

 宇野 :  書き終わった本のことは忘れて、また次の本を書いていくということが多いのです。一度書いた事柄を再び書いていることに気づくこともありますが、同じことは書けないし、何を付け加えたのかは、だんだんわかってくる感じ。反復は必要なことでもある。反復してはじめて、何か違うことが見えてくる。ドゥルーズの主著(『差異と反復』)にもかかわりますが、反復しなければならないし、反復してはならない。しかし今回の『政治的省察』について連続対談をする機会に、あそこで書いたことを、しっかり反復し、振り返るための作業を、意図的に行ってみることにしました。あの本の内容も、その書き方も、それを必要としているように思います。

 

この本に田村均さんのコメントをいただいたことが(track2で後述)、こういう会をやろうと思ったきっかけになりました。田村さんは大学生時代の仲間で、もう30年以上会っていなかった。彼はイギリス経験論の専門家で『自己犠牲とは何か』という本を最近刊行されました。ロックやヒュームから続くアングロサクソン系の哲学、経験論、道徳哲学など、私のよく知らない観点から書かれたその本には、私の考えてきた政治的な“自己”や“自己との関係”という問題について、新たな切り口を与えてくれるところがあります。

 田村 :  宇野さんとは学生時代、日本の詩を読むことやジャズを聴くことなどを教えてもらったり、一緒に読書会をやったりもしていた仲です。宇野さんはフランスのドゥルーズのところに留学したけれど、自分は、ジョン・ロックで卒業論文を書いた。それ以来、アングロサクソン系の思想を勉強してきました。30年以上過ぎて互いの本を交換して読んでみて、やはり何か通じるところがあると感じています。

// references //

田村均, 2018.『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

※ 内容面に、比較的深く言及された書籍のみ表記。

※ 洋書の邦訳書については、1つに特定できるもののみ表記。

※ 邦訳書が存在しない書籍は、原題(アルファベット)で表記。

track 2 / 自然淘汰(選択)と意志
00:00 / 07:19

// summary //

 田村 :  私からの『政治的省察』へのコメントとして、〔配布資料の〕まず最初に「人間は事実共同的な存在であるのに、人間を共同的にしている力を基礎づける手立てが存在しない」と書きました。宇野さんとは違う英語圏の哲学のバックグラウンドから、この問題を考えてみます。

 

英語圏の哲学は、自然科学、数学、言語学との繋がりが強いのです。この場合、「人間とは何か?」という問いを考えるなら、発想として、基本的に生物学が基礎になる。すると、人間は社会性の霊長類である、という話になります。生物学的観点からなら、「人間が共同的存在である」というのはほとんど自明なのです。つまりホモ・サピエンスは群れを作る。群れのなかで競争するのは他の霊長類と同じですが、人間が他と少し違うのは、共同することです。つまり、協調行動(cooperation)ができる、ということ。ここが他の霊長類と異なる。マイケル・トマセロによれば、他者の考えが分かり、それを自分の考えとすり合わせて、他者と共同の意図を持って、共同のプロジェクトを実行する。これが人間の協調行動です。ヒトの進化のある局面で、協調行動がうまくできないかぎり、生き延びられないし、子孫が残せない、という状態が生じた。生物ですから、人間を共同的にしている力は、究極的には、淘汰の圧力だったというわけです。

 

でも淘汰の圧力だけで考えると、共同的であればよいわけですから、新石器時代の村を作る能力も、ナチスの政権を作る能力も、アテナイの民主制を作る能力も、全部、人間の脳の構造と心理的なメカニズムに基礎を置いているということになる。これらの体制のあいだの区別がなくなる。それじゃあ、現実に生きている私たちにとっては意味がない。私たちが「ナチスが嫌だ」と思うとき、それをどうやって基礎づけるかについては生物学は答えることはできない。生物学は人間は共同的ですよとは言えるけれども、どんな共同性が“良い”かは問題にしていない。ここに哲学者のする仕事がある、というのが最初に〔配布資料に〕書いたことです。

 

デイヴィッド・ヒュームの名前を資料に出しました。この人は、近代が始まってすぐの人です。まだ産業革命もフランス革命も起きてない時代の人ですけれど、もう神を切り捨てています。神の定めた自然法という考え方も切り捨てる。理性も連想の能力にすぎないとみなします。そして、人間の自然な本性(human nature)のみから全てを説明する哲学を20代の半ばで考えている。これに対してジョン・ロックは、まさにキリスト教哲学者で、西洋哲学の保守本流を作った人です。つまりロックを勉強すると、西洋哲学の幹がわかる。ところがヒュームはキリスト教には批判的でしたし、西洋哲学の中心とは全然違うところにいます。ロックは勉強の対象ですが、私は、ヒュームが18世紀にやったことを、21世紀に自分でやってみたいと思ったわけです。

 

それで、私自身は自己犠牲というテーマを取り上げて、人間の自然本性というところから考えた。自己犠牲は、とても矛盾した行動で、最も善いと自分で思って、仲間のために自分が死ぬというのは、普通生き物はしないでしょう。そんなことがなぜ起こるのか、ということを発達心理学や人類学を使って、いわばヒューム的に考えてみました。それが『自己犠牲とは何か』という本で、その本の出版を契機に、宇野さんの『政治的省察』を読ませてもらうことになった。するとそこには「人間の共同性が事実上自明でありながら、それを基礎づける手立てがない」という問題が見出される。それをどういう問題として宇野さんが考えているんだろうか、と思いめぐらしたときに、意志という概念が浮かび上がってくるように思われました。

// references //

Tomasello, Michael. 2014. A Natural History of Human Thinking, Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016. A Natural History of Human Morality, Harvard University Press.

track 3 / 民衆:意志と行為主体
00:00 / 11:21

// summary //

 田村 :  どういうことかというと、まず自然は因果的に出来ている。原因と結果の連鎖になっています。たとえば、気候が変動して、食べ物が取れなくなる。それで、みなで協力して獲物を取るような集団のみが生き残り、単独でばらばらにやっているところはみな子供残せなくて消えていく。これは因果的なメカニズムですね。でも、人間の社会は、実は誰かが「こうしよう」と“思う”という、意志によって動くところもある。私がこうしようと思う。それで他人に働きかける。そして人々が動き、社会が変わる。このように人間の意志の水準と自然の因果の水準とが常に緊張関係をはらんで、人間社会を動かしている。で、宇野さんの本では、この“意志の水準”の話を、いろいろなかたちで戸惑ったり考え直したりしているというふうに思いました。

 

この本では、例えば政治と権力について「それがあるとされるところに、それはない(p.46)」と書かれています。これ、宇野さんは何を言いたいのかなあ、と考えてみて、結局、“意志する主体が存在しない”という現象についての戸惑いの表現なんじゃないか、と思いました。西洋哲学の流れだと、主権=ソブリンティ(sovereignty)というのは、まず神がsovereignなんですね。この神の権限が君主に移され、君主の権限がまた、国民に移る。そして国民は理性を持った個人へ解体される。この個人が最終決定をする。カントやヴォルテールの思想で、このくらいまで来ます。しかしこの“個人”は、確固たる理性を持っているとは到底言えず、結局、知覚の流れに拡散していく。そうすると、主権という最終決定力は、どこにも宿れない。それにも関わらず現実の政治過程を見ると、最終決定自体は常に下されているし、その下された決定への異論も起きている。最終決定を下す力を持ってる者はいないのに、最終決定だけはある。なら、一体どこにこの最終決定をする力を位置づけたら良いのか。こういう戸惑いのようなものが、宇野さんの言葉にはあらわれていると思ったわけです。

 

それで、この意志する存在、意図的な存在というものを軸にして、他の章のさまざまな言葉も読み解けるのではないか、ということで、意志という補助線を引いて、浮かび上がってくるものを考えてみます。

クラストルの『国家に抗する社会』への論及で面白いと思ったのは、首長の言葉が、法としての、あるいは命令としての力をもたない、命令の力をもつような言葉を人々が拒絶している、という点です。クラストルの言葉によれば、「権力が、あたかも自然の再出現が拒否されるように拒否される」とあります。自然というのは因果的な力ですね。人間を決定する力。そういう力が出てくるのを拒絶する。これは結局、君主が命令して人を動かす、というあり方を拒絶することです。「これをやれ」と言われてそれをやる、というつながりを受け入れない。命令とか約束といった言葉の力を受け入れない。こういうことになる。クラストルによれば先住民の社会には、こうした力の出現を拒否するような状態が存在した。でも、王の言葉が自然の因果的な力のようなものとして現れることを拒絶し続けるというのは、非常に難しいはずです。言語には命令や約束によって人を動かす機能がもともと備わっていますから。だから、国家に抗する状態が本当にあったとしても、それは非常に危うい均衡状態にならざるを得ない。

それから、「民衆(peuple)が欠けている」とか「幾つかのおぞましい受苦の中でしか創造され得ない民衆」といったドゥルーズの言葉については、私は、今日の香港を思い浮かべました。香港市民には、習近平政権が香港を乗っ取ろうとしているという事実認識があり、それを絶対に阻止したいという情念があります。この認識と情念が多くの人に分け持たれている。香港の人々は、自分も、他の人もそれを持っていると皆お互いに分かっている。そういう相互の理解ができた状態が集団に形成されると、それは、今日の英語圏の哲学では、「共同行為主体」と呼ばれます。

単に見知らぬ人々と一緒に道を歩いているということと、「散歩しようね」と言って二人で歩いているということは、はっきり違うことです。「散歩しようね」という場合は、散歩したいという気持ちをもっていることがお互い分かっていて、歩いている。でも、並んで歩いていても、単に通りすがりで、散歩したいという相互理解が成立していなければ、一緒に散歩しているわけではありません。いまの英語圏の哲学では、こういう問題が詳しく分析されています。

この問題で一番面白いのは、マーガレット・ギルバートが例示した話ですが、ティナとリーナがダイエットのために30分ウォーキングしよう、と約束した。しかし、たとえば15分経って、ティナが「もう嫌だ」と言い出す。するとリーナは「私もそう思ってた」と言う。つまり2人とも、歩き始めてしばらくたって、もう止めたいと思い始めたのに、最初に「散歩しようね」と言ったときの共同の目的と共同の意図に沿って歩いていた。だけど、ひとりひとりとしては、もう止めたいと思っている。こういうことがありうる。こういう場合、個人の気持ちとしてはやりたくないけど、最初に作り上げた複数の人間の合意としてはやりたい、そういう共同性の水準が形成されているわけです。こうして、ときには当事者の個人意図とは裏はらに、1つの行為を進行させている主体が共同行為主体であり、共同の意図なんです。この共同性の水準が成立して初めて、ティナやリーナという当事者たちは、その水準に対して反抗したり、従ったりできるようになる。

こういう議論を参照すると、ドゥルーズが「民衆が欠けている」というときの「民衆」というのは、共通の事実認識と共通の感情によってお互いに何を考えているか分かっていて、何かをしようという共同の意図をもっている、そういう存在なのでしょう。そして、それが形成されない。そういう話なんじゃないだろうか。

// references //

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

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