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​宇野邦一『政治的省察』・連続対談

0th

第0回:2019/06/22 
宇野邦一さんと田村均さんの対話

『政治的省察』を読み解く

 宇野邦一 Uno Kuniichi 

1948年生まれ。哲学者・立教大学名誉教授。著者に『意味の果てへの旅』『アルトー思考と身体』『ドゥルーズ 波動の哲学』『反歴史論』『アメリカ、ヘテロトピア』『<兆候>の哲学』など。最近の訳書にS.ベケット『モロイ』がある。

 田村均 Tamura Hitoshi 

1952年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。元名古屋大学大学院文学研究科教授。専門は、ロック、ヒュームなど、イギリス経験論。自己、虚構、意志、などについて、多数の論文を執筆。最近の単著に『自己犠牲とは何か』、

訳書に『フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―』(ケンダル・ウォルトン著)。

概要

「人間は事実共同的な存在であるのに、人間を共同的にしている力を基礎づける手立てが存在しない」。『政治的省察』を読んだ田村均さんが返した、このコメントにはっとしたことが契機となり実現した、対談。

​後の、

以下は、2019年6月22日に学園坂スタジオで行われた対談イベントの録音ファイルです。全3時間に及ぶため、18トラックに分割して収録しています。また、ごく短く要点を抜き書きしています。

track 1 / イントロダクション

00:00 / 12:58

// topics //

 宇野 :  私は基本的には、書き終わった本のことは忘れて、また次の本を書いていく傾向にある。そのため、かつて書いた事柄と同じものを、再び書いていることに気づくこともある。ただ今回の『政治的省察』については、港大尋さんの働きかけもあって、この本で書いたことを振り返りつつ、連続対談を行ってみることにした。

 宇野 :  対談会をやろうと思った、もう1つ大きな理由として、この本への田村均さんのコメントがある(Bパートで後述)。田村さんは、大学生時代の仲間で、もう30年以上会っていなかった。彼は、イギリス経験論の専門家で、『自己犠牲とは何か』という本を最近執筆された。ロックやヒュームから続く、論理的蓄積による、アングロサクソン系の哲学。経験論や、道徳哲学。そういった、私の知らない観点がその本には多くつまっていた。それらが、私の考えている“自己”についての問題や、“自己との関係”という問題へ、新たな切り口を与えてくれた。

 田村 :  宇野さんには学生時代、日本の詩を読むこと、ジャズをきくこと、を教えてもらった。一緒に読書会をやったりしていた。宇野さんはフランスに留学し、ドゥルーズのところにも行ったが、自分は英語しかできないなと思い、たまたま、ジョン・ロックで卒業論文を書いた。それ以来、アングロサクソン系の思想を勉強してきた。宇野さんとは違う系統だったが、30年以上過ぎて、互いの本を交換して読んでみると、何か通じることを考えている。

// references //

田村均, 2018,『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

※ 内容面に、比較的深く言及された書籍のみ表記。

※ 洋書の邦訳書については、1つに特定できるもののみ表記。

※ 邦訳書が存在しない書籍は、原題(アルファベット)で表記。

references

アーレント,ハンナ. 2003,『責任と判断』.

アーレント,ハンナ. 1977-78,『精神の生活』(未完).

バーマン,ハロルド J.1983, 邦訳:2011,『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980,『千のプラトー』.

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006,『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

田村均, 2018,『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

Tomasello, Michael. 2014, "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016, "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

track 2 / 自然淘汰(選択)と意志

00:00 / 07:19

// topics //

 田村 :  私からの『政治的省察』へのコメントとして、「人間は事実共同的な存在であるのに、人間を共同的にしている力を基礎づける手立てが存在しない」と書いた。宇野さんと違うアングロサクソン系哲学のバックグラウンドから、この本を読んで、その問題を考えてみたい。

 田村 :  アングロサクソン系哲学は、自然科学、数学、言語学との繋がりが強く、「人間とは何か?」という問いを考えるなら、基本的に生物学を基礎にする。生物学的観点からなら、「人間が共同的存在である」というのは、自明。つまり“群れを作るから、ホモ・サピエンス”。加えてホモ・サピエンスは、“社会性の霊長類”。この社会性とは、共同的であること、つまり、協調行動(cooperation)ができる、ということ。ここが他の霊長類と異なる。マイケル・トマセロ(霊長類学者、発達心理学者)が書いているように、“他者と共同で特定の意図を持って、1つのプロジェクトを実行できる”。これが人間の協調。これができない種は淘汰され、ホモサ・ピエンスだけが残った。

 田村 :  逆に言えば、「協調行動なら人間的」となってしまう。ナチス政権の全体主義も、アテナイの民主制も、村落共同体も、全て協調行動。そのため、現に生きている私たちが「ナチスが嫌だ」と思うとき、その思いを基礎づけているものについては、生物学から問うことはできない。生物学では、“人間は共同的”を確証するだけで、どんな共同性が“良い”かは問えない。ここに哲学の仕事がある。

 田村 :  ヒュームは、理性を、あくまで連想の能力として立てた。彼は近代が始まってすぐの人だが、そうして既に、“神”や“自然法”を切り捨てて、人間の本性(human nature)のみから、全てを説明する哲学を実行している(しかもそのとき25歳)。対してロックは、まさに“キリスト教哲学者”で、西洋哲学の保守本流を作った人。つまりロックを勉強すると、西洋哲学の幹がわかる。逆にヒュームは“反-キリスト教”。ロックは勉強になるが、結局自分でやりたくなるのは、ヒュームのやったこと。

 
田村 :  ヒュームのやったことを、21世紀に自分でするとき、“自己犠牲”というテーマを選んだ。『自己犠牲とは何か』は、“共同体の中での、最善の自己選択として、自分が死ぬ”、という、生物としては全く矛盾した行動がなぜ起こるか、ということを、発達心理学や人類学を使って考えましょう、という本。一方で、それと交換して読んだ宇野さんの『政治的省察』には、“人間の共同性が事実上自明でありながら、基礎づけられる手立てがない”という哲学的問題に、“意志”というコンセプトが浮かび上がってきている。
 

// references //

Tomasello, Michael. 2014, "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016, "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

references

アーレント,ハンナ. 2003,『責任と判断』.

アーレント,ハンナ. 1977-78,『精神の生活』(未完).

バーマン,ハロルド J.1983, 邦訳:2011,『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980,『千のプラトー』.

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006,『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

田村均, 2018,『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

Tomasello, Michael. 2014, "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016, "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

track 3 / 民衆:意志と行為主体

00:00 / 11:21

// topics //

 田村 :  自然は因果的に出来ている。つまり、原因と結果の連鎖。気候が変動して、森で食べ物が取れなくなった。それ故、平原で獲物を取るようになった。それ故、群れで狩りができるグループのみが生き残った…これが“因果の連鎖=自然”。しかし“意志”と言った場合に全面化するのは、誰かが「こうしよう」と“思う”ことで、何かが働きかけられ、人間間に緊張関係が生じながら、動いてきた、ということ。宇野さんの本では、この“意志の水準”が、色んなかたちで、戸惑いや再考を繰り返し、展開されている。

 田村 :  その本では、“意志する主体が存在しない”という現象についての戸惑いが、例えば、「それがあるとされるところに、それはない」という書き方で表現されている。西洋哲学の流れだと、主権、ソブリンティ(sovereignty)は、まず神の権限。これが君主に移され、君主の権限がまた、国民に移される。そして国民は、各々で理性を持つ、個人へ解体される。カントやヴォルテールの思想で、このくらいまで行き着く。しかしこの“個人”は、確固たる理性を持っているとは到底言えず、知覚の流れに拡散していく。結局、主権という、最終決定力は、どこにも宿れない。それにも関わらず、現実では、最終決定自体は、常に下されているし、その下された決定への異論も起きている。最終決定を下す者が出現しないのに、最終決定だけはある。なら、一体どこにこの最終決定力を位置づけたら良いのか。こういう戸惑いが、宇野さんの言葉にはあらわれていると思う。

 田村 :  『国家に抗する社会』で面白いと思うのは、法、命令の力、の出現を回避し続けるものとして、首長の言葉が論じられている点。“「これをやれ」と言われ→これをやる”。この命令体系は、一種の自然であり、つまり因果的な力。この自然性の出現を拒否するように、権力の出現に抗しているとされる。現実にそうした状態があったとしても、それは非常に危うい均衡状態にならざるを得ないと思う。

 田村 :  民衆(peuple)については、「幾つかのおぞましい受苦の中でしか創造され得ない民衆」というドゥルーズの言葉が、『政治的省察』に引用されている。私は、今日の香港を思い浮かべる。習近平政権の乗っ取りという事実認識と、絶対にその実現を拒絶したい信念。これを自分も、他の人も、思っている。そうして民衆が生まれている。

 
田村 :  今日のアングロサクソンの哲学では、“共同行為主体”という発想がある。マーガレット・ギルバートが例示した話だが、ティナとリーナがダイエットに30分ウォーキングしよう、と約束した。しかし15分で、ティナが「もう嫌だ」と言い出す。するとリーナは「私もそう思ってた」と言う。つまり、2人とも止めたいのに、ウォーキングという1つの行為が、15分程続いていたことになる。こうして、ときには当事者の自意識とは裏はらに、1つの行為を進行させている主体性が、共同行為主体。この共同性の水準が成立して初めて、ティナやリーナという当事者たちは、その水準に対して反抗したり、従ったりできるようになる。“民衆”というのは、共通の事実認識と感情によりこの水準を作り出し、それに反応しつつ、自分たちを形成している。
 

// references //

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

references

アーレント,ハンナ. 2003,『責任と判断』.

アーレント,ハンナ. 1977-78,『精神の生活』(未完).

バーマン,ハロルド J.1983, 邦訳:2011,『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980,『千のプラトー』.

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006,『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

田村均, 2018,『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

Tomasello, Michael. 2014, "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016, "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

track 4 / 最悪の政治

00:00 / 10:03

// topics //

 田村 : 最悪の政治”というのも非常におもしろい話。最悪には2種類ある。1つは、個々人へのあらゆる外部的な強制が、個々人の自発性として内面化してしまい、それにより個々人が主体化されてしまう。最早、「何が最悪で、何が最良か」という思考がなされない。これが、管理社会の極限的な状態を作る。そこでは、個々人が、“自分の諸欲求を対象化した上で、実現すべき欲求を1つ選択する”、という内面的行為が起こらない。外的な誘因刺激(インセンティヴ)、つまり、「こうすれば、こういう良いことがあるよ」という刺激、に従っているだけ。しかも、その追従を、自分の“自発的な選択行動”として認識し続ける。逆に欲求の選択を、チャールズ・テイラーは、reflection(反省)の働きと書いている。「最大の欲求を認識し、それを対象化した上で、それに従うか、或いは、それとは別の欲求を、自分の欲求として選択し、それに従うか。これを内面的に行うのが、人間の思考である」、と彼は言う。

 田村 :  もう1つの最悪状態は、フーコーの言葉で、“牧人権力”。個人の持っている意志、というものが無意味化されている状態。これはローマ教皇、司祭、の権力。キリスト教的な意志は、まず神の意志。これが、個々人の意志としては、“自分の魂と肉体とを1つに統合するもの”となる。よって、個人の内の、魂と肉体の統合性は、常に“神へ向いた意志”である。これが「神への愛」と呼ばれる事態。こうして、“愛=意志”としての神が、個々人の意志を乗っ取り、吸収していく。もし間違ったことをすると、「あなたは本当はそんな人でない」と、本当の、神へ向いた善い意志へ、自己を従わせるよう、求められる。個々人の意志は、神の意志の受け皿に過ぎない(この個人の意志の無意味化は、先の最悪状態と共通している)。自己を統合せしめる(神の)意志と、それを自分で変だと思うということ。この2つを、2つの層として持ち続けることが、いわゆるビオプーヴォワール(bio-pouvoir:生-権力)と闘うことを可能にするのではないか、と思う。

 
田村 :  そして“自己との対話”について。思考は言語で行う。私たちなら日本語とその文法、それらに則った論法で、行う。いわば、言語という共同的プログラムを使って、身体が考える。しかし、その推論や連想に、何か違和感を生じることがある。その言語化できない違和感は、共同的プログラムに吸収される以前の、自分の思考を示している。共同的な思考と、自分の思考とに2層化される違和感。これが、アーレントが“自己との対話”で言わんとしたことだと思う。『責任と判断』に書かれているのは、ナチスに協力した人が、道徳的な人ではなく、“道徳的な原理を持っている”人だということ。この原理で動く人は、「そんなことは“すべきでない”」と考える。この場合、その原理が、ナチスの原理に交換さえされれば、ナチスの原理に従って動く。対して、「そんなことは“できない”」と思っている人は、共同的原理によらずに思考している。この場合、原理が交換できず、ナチスに協力的にならい。そのために、自己との対話を開き続けておかねばならない。アーレントはそんなふうに書いている。

// references //

アーレント,ハンナ. 2003,『責任と判断』.

references

アーレント,ハンナ. 2003,『責任と判断』.

アーレント,ハンナ. 1977-78,『精神の生活』(未完).

バーマン,ハロルド J.1983, 邦訳:2011,『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980,『千のプラトー』.

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006,『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

田村均, 2018,『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

Tomasello, Michael. 2014, "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016, "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

track 5 / 大陸系哲学との距離

00:00 / 10:15

// topics //

 参加者 :  アングロサクソン系の発想で、自然科学的な共同性は、“類”として動くということ。この英米系の進化論的な共同性を、大陸系(ヘーゲル)なら精神と考えるだろう(或いはドゥルーズだったら機械と言うだろう)。ヘーゲルも一種の汎神論であって、“絶対知へ向かい進展する自然史の過程”というものを信じている。しかしその進展の果てで、コジェーブのヘーゲル読解や、東浩紀の論が示すように、人間は動物化する。一見明晰な英米系のプラグマティズムも、“共同性や類”として、“大陸系の発想が行き着く、自然史的な果て”に相当する思考停止性に至っているのではないか。むしろ、英米系と大陸系の両者が、別角度から交差しているところが、そうした思考停止性である。最近の反主知主義や、用語的混線などによる、混乱状態は、このことを示していると思う。

 
田村 :  英米系の、マイケル・トマセロは、発達心理学の研究を通して、人間には5歳くらいで、集団的規範「僕たちはこうしないといけない」という共同的意識が生じ、ここで、チンパンジーなどと大きな違いが生じる、と導出した。いわばこれが、ヘーゲル的な精神の、ひな形、原器。これを出発点として、ベネディクト・アンダーソンが言うように、コミュニケーションツールの発達や、物語の作成と伝達、の積み上げを通して、“国民”と言えるまでに、共同体は組み上がって行く。と、英米系なら考える。

 田村 :  ハンス・ライヘンバッハという科学哲学者は、20世紀のドイツの人だが、明確に“反ヘーゲル主義”を打ち出している。逆に英米系の、チャールズ・テイラー(カナダ)は、へ―ゲル研究から始めた、20世紀の哲学者。このように20世紀初頭から、英米、ヨーロッパで、幾人かの哲学者は、自覚的にヘーゲルと特有の距離を取ろうとし、それぞれ別の道を示し始めた。

 

// references //

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アーレント,ハンナ. 2003,『責任と判断』.

アーレント,ハンナ. 1977-78,『精神の生活』(未完).

バーマン,ハロルド J.1983, 邦訳:2011,『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980,『千のプラトー』.

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006,『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

田村均, 2018,『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

Tomasello, Michael. 2014, "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016, "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

track 6 / 必然への懐疑と、習慣の開始点

00:00 / 05:59

// topics //

 参加者 :  Natural history(自然史、博物学)、と言うときの、“進化”的なニュアンスは、英米系ではどう理解されるのか。

 田村 :  ジョン・ロックは、自分の哲学を“historical plane method”と言う。これは、「“歴史ではなく”、“事象を観察して記述してく”」、ということ。観察、事象記述、が、ヒストリーの本質。(宇野:自然史の“史”)。勿論、「チンパンジーと人間が、共通の先祖からどのように枝分かれしたのか」ということを、時間順に記述するようなこともするが、これは進化の記述というより、因果的条件の継起的記述。

 参加者 :  その点について、最近ならカンタン・メイヤスーが、「必然の堆積が現在を構成しているわけではない」、と言っている(柄谷行人も前から言っているが)。因果律やその連鎖性を自明に必然化することの是非。(宇野: それはヒュームの問題)。

 田村 :  ヒュームなら、必然性とは、人間の習慣付け。しかしやや広くヒュームを読んでみると、この習慣付けの前提として、世界の原始的な物理的構成、つまり、“自分の身体が、他の物体の中へ入らない”ということ、これを、実在として認める他ない、とされている。「世界がある」と認めて初めて、あらゆる懐疑も可能になり、因果的説明も可能になる。これが、 (世界は人間の投影に過ぎないという)懐疑論を、経験論が乗り越えるときの基本パターン。ウィトゲンシュタインにもこれは共通する。

// references //

none.

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アーレント,ハンナ. 2003,『責任と判断』.

アーレント,ハンナ. 1977-78,『精神の生活』(未完).

バーマン,ハロルド J.1983, 邦訳:2011,『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980,『千のプラトー』.

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006,『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

田村均, 2018,『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

Tomasello, Michael. 2014, "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016, "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

track 7 / いい加減さは懐疑を退ける

00:00 / 03:51

// topics //

 宇野 :  太陽が昇る。ここで、我々が「それはなぜか」と問うたら、「我々の習慣的な認知の世界では、太陽は昇ると言って、差し支えない」と答えられてしまう。こういう、非常に積極的な意味での“いい加減さ”が、ヒュームのある種のプラグマティズム。

 
田村 :  懐疑論から人間をすくい出すのは、人間が、“おっちょこちょいで、いい加減にやる”瞬間。このヒューマンネイチャーが、人間をどんどん先に進ませていくことで、世界への懐疑から、自分の生をすくっている。生きることは、世界があると認めることになる。ヒュームはこういう言い方をしている。

 宇野 :  そういうヒュームのプラグマティズムから、ドゥルーズ哲学は出発している。また、そのドゥルーズが、ウィトゲンシュタインを批判するのは、“命題の真偽を問う”という仕方に、思考を還元する点について。これではコンセプトの生が消え去ってしまう、と批判している。

 
田村 :  ウィトゲンシュタインは、前期の『論理哲学論考』では確かにそうだった。だが後期は一転して、命題に対する信頼が無いところから始まる。言葉は、使用する中でしか、生きられない。言語ゲームで考える。

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アーレント,ハンナ. 2003,『責任と判断』.

アーレント,ハンナ. 1977-78,『精神の生活』(未完).

バーマン,ハロルド J.1983, 邦訳:2011,『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980,『千のプラトー』.

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006,『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

田村均, 2018,『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

Tomasello, Michael. 2014, "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016, "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

references

アーレント,ハンナ. 2003,『責任と判断』.

アーレント,ハンナ. 1977-78,『精神の生活』(未完).

バーマン,ハロルド J.1983, 邦訳:2011,『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980,『千のプラトー』.

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006,『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

田村均, 2018,『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

Tomasello, Michael. 2014, "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016, "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

track 8 / 『政治的省察』の主体、アーレントの意志

00:00 / 16:07

// topics //

 宇野 :  『政治的省察』というこの本は、学園坂スタジオで話したことの書き直しではあるが、ここで話しているとき以上に、混沌としている。これを書いている人間が何人もいる。そういう感じ。ここ数年は、特に政治というものに焦点を合わせて考えているが、政治について、政治的な立場について、物事への政治的見方について、政治的行為について…何人もの人間が交互に書いていて、なのでこの本はちょっと、どうしようもない(苦笑)。そうした記述者性を選択すること自体が、ひとつの政治。言葉の選択1つ1つに、1つ1つの政治が入り込んでいる。これを、統合失調状態に維持しつつ、しかし一貫的構造を書く、という仕方を取った。これ自体が、“1つの主体”という政治性への、問題提起。

 
宇野 :  「人間は事実共同体的な存在であるのに、人間を共同的にしている力を基礎づける手立てが存在しない」。田村さんからのこのコメントを読んではっとした。個々人のあらゆる行為が、私たちを、共同的な人間にする。これは確かではあるが、その共同性を基礎づける力は、何かしら裏切られ、奪われ、横領されている。ここには、歴史の問題がある。歴史の中で、人間を共同的にしている力は、国家、資本主義、資本、として出現し、そして政治として、出現する。そうした“共同性の再構成力”は、色々な葛藤、裏切り、搾取、横領、戦争、暴力…と表現されるものになる。その渦中から、田村さんが取り上げてくれたのは、“意志”という問題。

 
宇野 : “意志”はまず、アーレントからの問題。彼女によれば、意志を哲学的問題にしたのは、アウグスティヌス、そして初期キリスト教父たち。(それまでの哲学が問うのは、イデア、精神、理性、であって、その中のカテゴリとして、意志は内包されてしまっていた)。『精神の生活』で彼女は、初期教父以降、中世では、トマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスが、意志を論じ始めて、それが近代ヨーロッパの、主体や主権の発想へとつながる、と考えている。他方で、アーレントは、政治の理想をギリシアのポリスに見ている。このように彼女は、「“政治はギリシアから”/“意志はキリスト教から”」、という脈絡を敷いている。そのためアーレントにおける、“政治的主体性の問題-意志の問題”というつながりは、決して単純なものではあり得ない。

// references //

アーレント,ハンナ. 1977-78,『精神の生活』(未完).

track 9 / "意志-政治論"の系譜

00:00 / 08:52

// topics //

 宇野 : 意志”は哲学的問題として、ショーペンハウアー、ニーチェ、と続き、力、意志、の2つの問題になる。さらにこの後は、欲望の問題。ドゥルーズ-ガタリの欲望機械、無意識。この意志の問題の移行軸として、“政治”に関するジョン・ロックの発想を見ることができる。アーレントは非常に高くアメリカ独立革命を評価しているが、そのアメリカ独立へ直結していく歴史的流れとして、ジョン・ロックの発想がある。つまり、政治に、“正義による、理性による、統治”という意味を強く見る発想。これが無ければ、政治について語ることが無意味化する。正義-理性-統治という発想によって、近代までのヨーロッパの政治は、いわば「基礎づけられてきた」。ところが20世紀から、そういったものではない共同性がどんどん増殖し、政治の要にあるものがどんどん解体されていく。この政治的変様に同調して、意志や理性による統治よりむしろ、無意識、欲望が、考えられるようになる。

 
宇野 :  しかしそんな過程の中で、ヒトラーや強制収容所が生み出された。(アーレントはアメリカに、この全体主義を終わらせてくれた、という意味も強く見ている)。ここには、「民衆がいない」という問題があらわれている。つまり、民衆が、決して無意識にではなく、即ち革命を望むような意志を以て、自分たちを理性化するように、ファッショ化していく、という事態が起きた。民主主義が、意志や理性を根幹原理としているにも関わらず、独裁的な管理社会へと、それ自身で変化していく。そういった過程を含み、“意志-政治”を考えたい。それには様々な歴史的ケースが、(トランプ政権や安倍政権なども含み)、考えられる。

// references //

none.

track 10 / 西洋的原動:個人は共同体を覆す

00:00 / 07:18

// topics //

 田村 :  革命について。法制史家ハロルド・バーマンの“Law and Revolution”という本は、次の6つの革命が、“近代”を定義する、としている。教皇革命(ローマ教会が世俗君主から権力を奪った革命)、ルター派の革命と清教徒革命(ローマ教会に対するカルヴィニズム的革命)、フランス革命(理神論者の革命)、アメリカ独立革命(カルヴィニズムと理神論の合体的革命)、ロシア革命(無神論者の革命)。こうした革命を行う側は、必ず、「世間のみんなが思っている神は不純だ」「私が言っているのが本当の神だ」、と言う。それでまず、既存の共同体から迫害される。しかし再び、本当の神という理念を見出した人間として、共同体内に戻って来る。そして、その共同体を乗っ取る。“共同体から飛び出した個々の人間”が、本当の理念をつかみ、共同体や世界を全部変えてしまう。これが近代西洋を成り立たせる運動の文法。そう言われている。

 宇野 :  そこでは、“信仰”というタームが、共同性の問題より優先的に出てくる?

 
田村 :  必ずしも信仰が全面的に問題なわけではないが、“共同体が信じる事柄”、“共同体から飛び出した個人が信じる事柄”、があり、後者の個体が信じている事柄が勝つ。これが、近代西洋の動力、という発想。取り分け自然科学で、この近代性は顕著。もし一人の大学院生が、教科書に載るほど共同的に認識されている真理と、異なる実験結果を提示したとしても、そちらが正しい可能性は常に認められる。共通の言語を使いつつ、その中で違和感を見つけた個人が、共通性をひっくり返す真を見つけることがある。この発想が近代西洋の特徴。

// references //

バーマン,ハロルド J.1983, 邦訳:2011,『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

track 11 / 情念的主体性、個人の消滅、政治の蒸発

00:00 / 11:07

// topics //

 参加者 :  本当の神、本当の真、というときの、「本当の」は、“超越性”でしょうか?

 田村 :  超越性。だが原理的に、「超越者を見た」といった時点で、それは超越性でなくなる。なので、共同体内で超越者とされる真、神は、常に偽物の可能性がある。その共同体内で、そんな偽物の可能性が及ばない領域が、“個人”という肉体。この意味で、個人のプライバシーとは、“共同的な言語によって語り尽くせないこと”の拠点。

 参加者 :  共同体の内に、個人として、外部性が作られる。


 宇野 : “主体化”という言葉が浮かんでくる。今の議論の下地は、やはり旧約聖書。『千のプラトー』に「記号の知性」というおもしろい章があり、“情念的主体化”というものを論じている。これは、旧約聖書内の預言者たちに始まり、イエス・キリストや、またデカルトのコギトまで通ずる、主体化のタイプ。一見知的な行為を取りながら、神から捨てられる。そういう“神を裏切る”主体化のタイプ。それを想い出す。

 
田村 :   共同体内で生じる違和感に突き動かされた個人は、時に、共同的言説では説明できない行動を取る。それが実は、次なる、真理、善、美、の芽生えであると認められる。“真が見出されれば、必ず次の真の発見に向う”、この発想が西洋の力動性。これと対照的に、日本の近代思想では、“主客未分の状態”というものを理想とする。例えば、橋田邦彦は、「自然科学の到達点は、自分(主体)と、客体である自然とが、合一するところ」、と明言している。だが主客が合一してしまっては、次の体系を目指すような主体的な違和感は生じない。そういうところを目指そうとするのが、日本の近代思想の病気かもしれない。

 
宇野 :  井筒俊彦の東洋思想論も、「仏教やイスラームなどは最終的には皆、それらに分節化する以前の、同じ起源に行き着く」、という発想。日本でこれを伝統的に洗練してきたのは密教。そしてこれに対して、一時期、駒澤大学の仏教学者を中心に、非常に激しい批判が起きたことがある。

 
田村 :  天台本覚思想を批判していたグループ。山川草木悉皆成仏こそが諸悪の根源なんだと、彼らに批判されていたように、「何もせずとも、これで完全である」という合一性を掲げ、それに向けて近代化を進めるという、西洋の“近代”とは全く異なる傾向が、確かに起きていた。

 
宇野 :  日本的現象と言えるかもしれないが、「政治があたかも存在しないかのようにして、政治が持続する」という状況が生まれている。政治という問題次元を分解し、文学、美学、モラル、メディアへと、蒸発させる状況。そうしたものを巡る力関係の問題へと、政治がそこに無いかのようにしてのみ、私たちを立ち入らせる状況。同時に、その隠蔽作用として、政治自身が持続する。この隠蔽作用に、実際の政治活動は恐ろしい労力と時間を捧げている。私は、こういう状況を感じてこの本を書いており、はじめ、「政治の砂漠」というタイトルを考えてもいた。

// references //

ドゥルーズ,ジル, フェリックス・ガタリ.1980,『千のプラトー』.

track 12 / 絵の命令、その変移

00:00 / 09:45

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 参加者 :  自分は美術を制作している。先ほどの主権の変移の話は、美術史とリンクしていて、興味深かった。美術は、(神や聖人を描く)宗教画から、資産家などの肖像画になり、そして民衆、個人を描くようになったが、今日では、“個人”という表現単位までも解体している。その中で私自身は、“共同体”を問いの基盤にして作品を作っているので、それと関連し、政治についても考える。

 
宇野 :  先ほどの“共同行為”は、英語だと?

 田村 :  ある文化的基盤の上で、それに基づいた複数の人たちが、相互に可能とするものの場合は、“connective actions”(中国の干渉への、香港市民としての抵抗など)。それと区別して、ある人とある人とが一対一で成立させているものを指すときは、“joint actions”(2人でウォーキングするなど)。

 参加者 :  “描く”という(共同的でもある)行為は今日、何かを“表象すること”ではなく、むしろ、何かを、あるいは矛盾を、“露呈すること”になってきている。


 
田村 :  以前、美術について学びつつ、ケンダル・ウォルトンの『フィクションとは何か』を邦訳した。ウォルトンによると、絵は、人間の想像力を支配する力であり、“命令”である。神、君主、人々、が、“どんなものなのか”を、私たちが想像するところを、絵が支配している。抽象画を見るときでさえ、例えば、“ある図がある図よりも奥にある”という、抗えない認識性が、それを見る人へと命令されている。どんな絵も、“見る-想像する”、についての支配力である。そう考えると、絵という権力、つまり、“人々に何かを思わせる命令的力”、の在り様が、神→君主→個人と変移していき、そして今日、個々人のimpressionへと移ったのではないか、という問いが出てくる。

 
田村 :  ウォルトンの発想の根幹は、“物”が“力”であるということ。人間の幼児の目の前で、丸を描き、その中に幾つか点を打って行くと、ある時点でそれを“顔”と認識する。チンパンジーだと、こういう飛躍は起きず、ただ図としてしか認識されない。つまり絵は、“人間に”働きかけ、想像させ、思考させる力。(勿論、菊の御紋や、靖国神社の桜、など、政治と美術の明らかなつながりも、表象にはある)。尚ウォルトンの発想では、この“物-力”の1種として言語もあり、言語の場合は、“物-力”を、“分節”によって発現していると理解される。

// references //

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

track 13 / 思想の2スタンス:意志はある or 意志はない

00:00 / 06:37

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 宇野 :  意志の問題を再整理したい。思想には、“意志は重要である”という世界と、“意志など存在しない”という世界がある。スピノザは「自由意志など存在しない」とした。彼からしたら、“身体による翻弄から抜け出した自由を、精神に見る”という、デカルトの発想は間違いである。スピノザ哲学では、身体の状態と、精神の状態とが対応しきっている。よって、身体内に対応するものがない精神の状態(身体からの自由)というものは、存在しない。スピノザはこうしたところで、「身体には何ができるか」と問い、ドゥルーズもスピノザのこの問い方に着目している。

 
宇野 :  自由意志を問題にしたのは、やはりキリスト教。“その行為が罪と分かっていて、罪を犯す”、という罪の問題に、個人の自由が関わっている。牧人権力と呼ばれるものや、キリスト教的な内面性も、ここから来ている。ニーチェの“力への意志”では、こういったキリスト教的意志への批判性が、「私の背後にある無数の自我が、意志している」、という論に展開する。またここからは、フロイトの無意識の議論へも移れる。というふうに、“意志を持つ主体”という、近代が政治的主体として認めているものが、どれだけ“如何わしい”のかを思考し、提示する思想の世界がある。例えばシュティルナーの『唯一者とその所有』も、“自己”と言われるものは、全部偽物なんだ、と言わんばかり。

 
宇野 :  対してアーレントは、あたかも、“意志する人間の政治”を構想しているように見えるが、実はそう言い切れるわけではない。この微妙なところにこそ、アーレントの“自己内対話”の問題がある。その根幹は、「間違ったことをする自分とは、自分は一緒に居られない」というソクラテスの言がある。しかしアーレントは、いわゆる“自己意識”とは、かなり違う何かとして、自己内対話を語っている。『政治的省察』の後半では、ここをどうにか明確化するために、ヒュームやデカルトの自己論とのブリコラージュを試み、それらを、フーコーの“自己への配慮”とつなげることで、意志の問題を、政治の問題へと再度組み込んでみた。

// references //

none.

track 14 / 人類と近代的個人

00:00 / 10:49

// topics //

 宇野 :  フーコーの“生-権力”は、近代的権力の特徴を粗っぽく10ページくらいで書いたもの。しかし田村氏は、「古い権力でさえも、死を自発性として組織する仕掛けを持っていた」、「成功した権力はいつも、自発性を促すものである」、と書いている。『自己犠牲とは何か』の直接的な対象は東京裁判で裁かれる、日本の軍人たち。それが、例えば、アイヒマンの事例とは別の仕方で、どう意志や、有責の問題として理解され得るかを書いている。

 
田村 : “人類”が太古から持っている普遍的な文脈があり、それが戦中から戦後の期間で、日本と西洋とで、それぞれどう現れたのか、というのが問題。それを、日本の状況について考えた。

 宇野 :  アウシュビッツのユダヤ人大量虐殺についてのアイヒマンと、シンガポールの華僑大量虐殺についての河村参郎とは、図式的に言うとどう違うのか。

 
田村 :  まず、“近代的個人”というものを理解するか、しないか。アイヒマンは、(アーレントも書いているが)、カントの自律性哲学を理解できている。人間は、時の権力に盲従するのではなく、自由な1つの理性として、自分の原理に従わねばならない。この実践理性、定言命題を、アイヒマンは理解できていて、「そうすべきだったが、ヒトラー政権下ではそうできなかった」と述べている。対して、河村参郎などの日本の軍人は、天皇から下って来る命令に際し、そんな近代個人性をそもそも理解しない。

 
田村 :  そして“自己犠牲”という交渉的発想の有無。河村参郎は、戦犯で死刑判決を受けると、「日中両国民の理想的融和のために、自分は死ぬ」という、本を書いている。他の多くの戦犯者も同様に、こうした“自己犠牲”という物語を自身のものとして語っている。つまり彼らは、“戦犯による死刑”という抗えない決定に際して、それを“自己犠牲の物語”に書き換えることで受け入れている。人間が、絶対的権力に接し、それを受け入れようとするときに取る、1つの定型が、ここに現れている。(古代からある生贄というストーリーが、日本のその状況に沿い、“自己犠牲”となっている)。

 
田村 :  対してアイヒマンは、そういった物語を立てての、権力との交渉を行ったわけではない。“近代的個人”では、降りかかってくる権力に対し、取り得る態度は2つ。その権力、決定が間違っていると自分で判断し、それに従わない。または、自分で考えても、その決定が正しいため、それに従う。「本当は嫌だけど、皆が言うなら、自分は犠牲になります」という自己犠牲的発想は、こうした近代的個人の理性からは絶対に出てこない。例えば、ティム・オブライエンは、ベトナム戦争での従軍経験を基に、いくつか小説を書いているが、「戦いに行きたくないけど、皆が言うなら行きます」という考えは、1行も出てこない。

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none.

track 15 / 自己犠牲という演技性

00:00 / 12:18

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 宇野 :  ドイツ人というあれだけ哲学的理性を持つ人たちが、ナチズムに至ったという事実について、色々と議論がある。いわば、ドイツ、アイヒマン的なタイプの凶悪がある。そして、日本の軍人的なタイプの、凶悪もある。

 参加者 :  アイヒマン的タイプの悪と言ったら、私たち皆の中にある、悪の凡庸さ。自律性を理解していた、というアイヒマンのフィルムを見ると、彼は本当にロボットのように振る舞う。証言台で、ぴょこっと立ち上がり、滔々と自己弁論を続ける。対して、日本の軍人、河村参郎の場合、自己犠牲という自分の行為についての、自己確信はあったのでしょうか?


 田村 :  自己犠牲は、私は、極めて演技的なものだと思っている。この“演技性”とは、1つの事態について、現実的認識と物語的認識とが、二重化すること。古代から、人類は、供犠を行ってきた。動物を殺したくないが、殺して食べる必要がある。そこで、その殺害を正当化するために、“犠牲”という物語を作る。例えば、アイヌのイオマンテだと、小熊を殺す前に、棒で突っついて動かし、「小熊が神の世界に帰還できると喜んでいる」と皆で確かめ合う。なぜそんなことをするのかといえば、「小熊は死にたくない」と皆が認識しているから。つまり、「動物は死にたがっていない」という現実認識があり、その十全な共有を前提条件として、「動物が(喜んで)自発的に犠牲になる」という物語認識が作られ、この演技的二重性によって、人類は動物を殺せてきた。河村参郎の場合、この人類的定型が、自身の1つの身体について、“死にたくない/日中融和のために死ぬ”という二重性を作った。

 田村 :  また、例えば神風特攻隊について、自己犠牲という価値を、私たちが認識できるのは、「彼らが本当は死にたくなかった」ということを十全に認識しているから。彼らが“本当に死にたかった”のなら、それは単に死にたい人が死んだだけで、自殺に過ぎず、そこに尊さは認識できない。このように、演技性は、死した人間だけではなく、彼らを記憶している私たちにも共有されている。

 
宇野 :  そういうフィクション性は、死に臨む以外の場合も、例えば多少の危険を冒して、革命的行動を取るときなどにもあり得る。

 田村 :
  日常的なものでもあり得る。アメリカ人の書いた論文で読んだことがあるが、せっかくの休日に、子供の野球を応援しに行かなくてはならない人は、ゴルフに行きたい気持ちを“殺す”という、サクリファイスを行っている。これがサクリファイスなのは、子供の応援に行くことが、自分にとって最良の選択である、と認識して“いない”から。もしそう認識しているのなら、単に、応援に行くという最良の選択がなされただけ。近代的個人が、その理性により、諸行動から最良のものを選択しただけ。つまり、この日常的なサクリファイス(本当はゴルフに行きたいけど、応援に行く)は、近代的理性とは別のものとしてしか生じない。

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none.

track 16 / 意志は単数か複数か

00:00 / 04:27

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 宇野 :  田村さんが本の中で、「意志は、単数(will)か、複数(wills)か?」という話をしている。アメリカ人に聞くと、常に単数と答える。1つの個人に、1つの意志があり、それは分割不可能なものだと。でも田村さん自身は、意志は複数だと考えている、と書いている。私(宇野)自身も、1人の私の中に複数の意志がある、と、自分の本の中で書いた(政治に関しつつだが)。

 
田村 :  アメリカ留学中に、あるセミナーで、「1人の人間は、複数の意志を持つことができない」という趣旨の論文を読んだ。でも日常的に、1人の中に、色々な意志が並行して生じる、ということはよくある。そこで、「なぜ複数の意志を1人は持てないのか?」と質問を投げてみたら、とても驚かれた。つまり彼らの中では、実践理性として、“1つの決定をなすこと”が軸となっていて、その決定性が、“1人の個人を定義する”とき、それが「意志」と呼ばれている。だから、「意志が2つある=2人の人間がいる」、ことになる。この発想がとても興味深く感じたので、日本に帰ってきてから、私の授業を履修している生徒たちに、アンケートを実施してみた。「1人の人は、複数の意志を持てる or 持てない」というもの。数年かけて、500人分くらい集まったが、約85パーセントは、「持てる」と回答している。

 
田村 :  ただ、西洋でも、アウグスティヌスまで遡るのなら、「ある意志を私が持つと、必ずそれを否定する意志も生じる」とされていて、「この分裂状態が、人間を人間としているのだ」、と言われている。これを統合して、1つの意志にするには神の恩寵が必要、というのが彼の論。

 参加者 :  しかし、近代理性のカント哲学でも、「何かである」、「何かしたい」というときには、必ずそうでないものが裏に張り付いてくる(純粋理性におけるアンチノミーのように)。アウグスティヌスの論のような神的なものなしに、人の理性についての複数性が言われる。(宇野: それを含めて、意志は単数で用いられている)。


 
田村 :  カントでも、色々な欲求や傾向性、というものは確かに複数的にある。ただ、それが実践的な、“行為する意志”となるのは、あくまでそれらが1つの普遍的法則であるように、人を1つの個人に統合しつつ、動かすとき。そのため、カントではやはり、意志は単数。

// references //

none.

track 17 / 意志の条件としての、複数の選択性

00:00 / 07:39

// topics //

 田村 :  東京裁判で、裁判長のウェブは、天皇の戦争責任について、全く“意志単数的”な論を展開した。つまり、軍人や政治家からの色々な助言があったにせよ、「戦争をする」という1つの決断を実際に行ったのは、天皇という1つの個、1つの意志である。故に、天皇にはその決断の責任がある、という論。

 田村 :  他方で、アングロサクソン的発想も、1つの意志について、2つ以上の可能性を確かに認める。例えば、崖の縁でバランスを崩して、落下することが避けられないとき、最早そこには意志など入り込めず、落ちて行くしかない。逆に、意志が有意味に使用できるのは、少なくとも、“何かへの意志”と、“それに反する何かへの意志”とが、それぞれ選択可能であるとき。このとき始めて(1つの)意志が、実践される。これもアングロサクソンの典型的な考え方。アウグスティヌスでも、興味深いことに、「キリスト教に帰依したい」という彼の意志と、「彼にそうさせまい」とする意志とが、最初彼の内で、葛藤を生じていた。すると外から「取れ、読め、取れ、読め…」という子供の声が聞こえ始め、それに従い聖書を取ると、ある詩句がちょうど目に入ってきた。それを機に、彼の葛藤は“帰依する”という1つの意志に統合された。

 
宇野 :  こういう話しで、田村さんは基本的に日本人論をやりたいわけではない。例えば、日本人にあるのは、西洋的な“罪”という意識ではなく、“恥”の意識、つまり世間や他者に対して恥ずかしいという意識である、というような論を展開したいわけではない。とは言っても、やはり“日本人”という問題と、西洋のキリスト教的なものとの、対面性は常にある。西洋的なものは、例えば、フーコーが告白を“装置”として理論化したような、キリスト教的な牧人権力のシステム。つまり人間1人1人に、自分でその内面を深く穿つよう、そしてその内面を自己管理するように働きかけることで、全体を制御する。そういう自発性の権力。これが意志、道徳という問題と連綿と続いてきているかもしれない。そしてそこには、そういう牧人権力の世界で、ヒトラーもまた生まれたという事実的問題も出現する。

 田村 :
  西洋哲学を勉強するにしても、根本的には日本語ベースの理解で進む以上は、その間の絶対的な差異に、気づかざるを得ない。私としては、そこでその差異を忘れて、全く西洋的な発想を取るのでも、日本人的同一性を強固に主張するのでもなく、むしろその差異から、日本語的な思考と、西洋のそれとの、共通の根を改めて見出したいと思った。そのテーマが、自己犠牲。動物を殺し、神に捧げるという行為は、人類全般に見られる。もしかしたら、旧石器時代には既に行われていたかもしれない。それは、権力とコミュニケーションする1つの方法だった。これを共通の土俵とすれば、その上でどのように、西洋哲学と日本との対比が生じるのかを、今日に連なる状況において改めて問うことができる、と考えた。
 

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track 18 / 政教分離の根本的不可能性

00:00 / 08:15

// topics //

 港 :  政教分離というものが、今日の政治形態において、本当になされているのかを、田村先生にお聞きしたいと思います。例えば、“1人が1票入れる”という、民主的な選挙はいわば、“1人につき1つの意志を示す”というコンセプト。“1つの意志=1人の個人”、がキリスト教的な発明だとすると、選挙制度の根本に既に宗教性があることになる。

 田村 :  経済学など、西洋の色々な知は、どれも基本的に、「1人の人間は、どんな(悪い)状況でも、その中での最善の選択を1つに絞れる」という暗黙の了解の上に成り立っている。これは根本的に、「1人の人間が、自身の内側から、1つの真の神を見出す」という発想に由来する。なので、そうした知によって構成される以上は、宗教に基づくコンセプトと一切無関係な政治システムを作るのは、私は不可能だと思う。ただ、可想通貨について、ブロックチェーンと言われるものがある。あれは、国家の大きな役割である、“信用の保証”を代替する仕組み。これが、もし本当に数学的純粋さをもったまま実装できるなら、宗教と全く無関係なかたちで、人間同士が互いを信用することを可能にするシステムになるかもしれない、とは思う。

 
宇野 :  信仰と、信頼、というものがある。ドゥルーズの映画論ではよく“信仰”として、croyance (信じる“croire”こと)というフランス語が出てくる。(英語だとfaithにあたる)。「世界は、もう信じることのできない、悪しき映画のようになった。しかし映画にこそ、信頼を見出し得る」、というような転倒的なことを、彼は言う。またスピノザは、全能的な神というものを人称的に捉えるような信仰心を粉々にした。そこで残っているのが、いわばこの世界、生命への“信頼”。こうした考え方が、スピノザからドゥルーズへと、連綿と続いている。このごろ、ベケットを訳しているが、彼は無神論者で、冷めた人である。それにも関わらず、どこかとりつかれているかのように、彼の作品内にはcroyanceの問いが存している。西洋の知の歴史は、「キリスト教と如何に決別するか」という闘いでもあるのだが、そうして来世への信仰を消し去る中で、“現世への信頼”が、色々な局面で問われてきているのではないか。

// references //

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006,『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

編集及びテクスト: 泉順太郎 (映像哲学)