track 3 / 民衆:意志と行為主体
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田村 : どういうことかというと、まず自然は因果的に出来ている。原因と結果の連鎖になっています。たとえば、気候が変動して、食べ物が取れなくなる。それで、みなで協力して獲物を取るような集団のみが生き残り、単独でばらばらにやっているところはみな子供残せなくて消えていく。これは因果的なメカニズムですね。でも、人間の社会は、実は誰かが「こうしよう」と“思う”という、意志によって動くところもある。私がこうしようと思う。それで他人に働きかける。そして人々が動き、社会が変わる。このように人間の意志の水準と自然の因果の水準とが常に緊張関係をはらんで、人間社会を動かしている。で、宇野さんの本では、この“意志の水準”の話を、いろいろなかたちで戸惑ったり考え直したりしているというふうに思いました。
この本では、例えば政治と権力について「それがあるとされるところに、それはない(p.46)」と書かれています。これ、宇野さんは何を言いたいのかなあ、と考えてみて、結局、“意志する主体が存在しない”という現象についての戸惑いの表現なんじゃないか、と思いました。西洋哲学の流れだと、主権=ソブリンティ(sovereignty)というのは、まず神がsovereignなんですね。この神の権限が君主に移され、君主の権限がまた、国民に移る。そして国民は理性を持った個人へ解体される。この個人が最終決定をする。カントやヴォルテールの思想で、このくらいまで来ます。しかしこの“個人”は、確固たる理性を持っているとは到底言えず、結局、知覚の流れに拡散していく。そうすると、主権という最終決定力は、どこにも宿れない。それにも関わらず現実の政治過程を見ると、最終決定自体は常に下されているし、その下された決定への異論も起きている。最終決定を下す力を持ってる者はいないのに、最終決定だけはある。なら、一体どこにこの最終決定をする力を位置づけたら良いのか。こういう戸惑いのようなものが、宇野さんの言葉にはあらわれていると思ったわけです。
それで、この意志する存在、意図的な存在というものを軸にして、他の章のさまざまな言葉も読み解けるのではないか、ということで、意志という補助線を引いて、浮かび上がってくるものを考えてみます。
クラストルの『国家に抗する社会』への論及で面白いと思ったのは、首長の言葉が、法としての、あるいは命令としての力をもたない、命令の力をもつような言葉を人々が拒絶している、という点です。クラストルの言葉によれば、「権力が、あたかも自然の再出現が拒否されるように拒否される」とあります。自然というのは因果的な力ですね。人間を決定する力。そういう力が出てくるのを拒絶する。これは結局、君主が命令して人を動かす、というあり方を拒絶することです。「これをやれ」と言われてそれをやる、というつながりを受け入れない。命令とか約束といった言葉の力を受け入れない。こういうことになる。クラストルによれば先住民の社会には、こうした力の出現を拒否するような状態が存在した。でも、王の言葉が自然の因果的な力のようなものとして現れることを拒絶し続けるというのは、非常に難しいはずです。言語には命令や約束によって人を動かす機能がもともと備わっていますから。だから、国家に抗する状態が本当にあったとしても、それは非常に危うい均衡状態にならざるを得ない。
それから、「民衆(peuple)が欠けている」とか「幾つかのおぞましい受苦の中でしか創造され得ない民衆」といったドゥルーズの言葉については、私は、今日の香港を思い浮かべました。香港市民には、習近平政権が香港を乗っ取ろうとしているという事実認識があり、それを絶対に阻止したいという情念があります。この認識と情念が多くの人に分け持たれている。香港の人々は、自分も、他の人もそれを持っていると皆お互いに分かっている。そういう相互の理解ができた状態が集団に形成されると、それは、今日の英語圏の哲学では、「共同行為主体」と呼ばれます。
単に見知らぬ人々と一緒に道を歩いているということと、「散歩しようね」と言って二人で歩いているということは、はっきり違うことです。「散歩しようね」という場合は、散歩したいという気持ちをもっていることがお互い分かっていて、歩いている。でも、並んで歩いていても、単に通りすがりで、散歩したいという相互理解が成立していなければ、一緒に散歩しているわけではありません。いまの英語圏の哲学では、こういう問題が詳しく分析されています。
この問題で一番面白いのは、マーガレット・ギルバートが例示した話ですが、ティナとリーナがダイエットのために30分ウォーキングしよう、と約束した。しかし、たとえば15分経って、ティナが「もう嫌だ」と言い出す。するとリーナは「私もそう思ってた」と言う。つまり2人とも、歩き始めてしばらくたって、もう止めたいと思い始めたのに、最初に「散歩しようね」と言ったときの共同の目的と共同の意図に沿って歩いていた。だけど、ひとりひとりとしては、もう止めたいと思っている。こういうことがありうる。こういう場合、個人の気持ちとしてはやりたくないけど、最初に作り上げた複数の人間の合意としてはやりたい、そういう共同性の水準が形成されているわけです。こうして、ときには当事者の個人意図とは裏はらに、1つの行為を進行させている主体が共同行為主体であり、共同の意図なんです。この共同性の水準が成立して初めて、ティナやリーナという当事者たちは、その水準に対して反抗したり、従ったりできるようになる。
こういう議論を参照すると、ドゥルーズが「民衆が欠けている」というときの「民衆」というのは、共通の事実認識と共通の感情によってお互いに何を考えているか分かっていて、何かをしようという共同の意図をもっている、そういう存在なのでしょう。そして、それが形成されない。そういう話なんじゃないだろうか。
// references //
クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.