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学園坂出版局ではジャンルを問わず、さまざまな書き手によるエッセイを掲載していきます。第1弾は、異色の福祉施設職員・ユリコさん。音楽や法学を学び、パレスチナでボランティア活動もされていたというユリコさんのふわりとした文体、それでいて実は思考の緊張を強いられるテーマ。わたしたちは果たしてこのエッセイからどんなことを汲み取れるでしょうか。全10 回を予定しています。

​掲載日.2023/11/21 essay No.6

家族について考える 6

ユリコ

私がパレスティナで知ったこと

 

 前回の原稿を書き上げてから、気づいたら1年以上経っていた。4月末に不意打ち的に母が亡くなり、自分が想定していたよりもかなり大きなショックを受けたことに自分自身が驚き、しばらく文章を書くことができなかった。ようやく少しずつ回復してきたので、次の原稿を書こうと思い始めた矢先、ハマスの「テロ」のニュースが流れ、すぐにガザ地区への「軍事攻撃」が始まった。
 それから後は、毎日毎日パレスティナで殺されていく人たちのことで頭がいっぱいになり、また書けなくなった。私にとってパレスティナはある意味「ふるさと」のような場所だ。その場所が連日空爆され、そこで人々が日々殺されていくのを誰も止められないという現実をただ見ているということが私にとってどういうことなのか、それをどのように表現すれば良いのか分からず、この一ヶ月間、毎日スマホの画面で現地の写真や動画、世界各地からの訴えを、ただ泣きながら見ていた。
 若い頃はどちらかというと子どもが好きではなかった。嫌いというほどではないが、あまり関わり合いたくないと思っていた。そんな私が児童養護施設で今働いているのは、パレスティナでの出会いと経験が土台にあるからなのだな、と改めて気付かされている。パレスティナでの経験が今の仕事にどうつながるのかを未だ上手く整理できずにいるが、今の時点で言葉にできることを書いておこうと思う。

 前回書いたように、私は音大をやめてから数カ月後、縁あってパレスティナ支援をしている小さなNGOの勉強会に参加するようになった。そこでNGOの代表者に「3ヶ月間ボランティアをすると滞在費を出してもらえるというプログラムがあるから行きたい人は申し出て」と言われ、音大を中退して楽器も弾けなくなった上に就職試験も落ちてばかりで呆然としていた私は、その呼びかけに飛びついたのだった。当時の私はパレスティナがどのようなところか全くわかっていなかったため、入門書として勧められた『君はパレスチナを知っているか―パレスチナの100年 (奈良本 英佑著)』を読み、英語が少しでも通じるようにと英単語教材の『DUO』を手に入れてしばらく聴きまくることでとりあえずの準備をし、家にあった古くて小さな英和/和英辞書を持って、1996年の12月から1997年の3月までの3ヶ月間をパレスティナで過ごすことになった。当時は今に比べれば政治情勢が落ち着いており、まだ分離壁もできていなかったので、今のパレスティナとは状況がかなり異なる。だけど、占領地の暮らしを垣間見ることはできたように感じる。

 私が滞在したのは、ヨルダン川西岸地区にある、ベッサフールという町だった。イエスが生まれたとされるベツレヘムにほど近く、「羊飼いの野」と言われている地域で、イエスが生まれたときには天使が降りてきて羊飼いたちに「救い主がお生まれになった」と告げたとされる地だ。私はNGOから派遣されていた日本人の看護師、保健師、洋裁技術者が共同生活をしていた所に居候させてもらった。
 私は、そこから週に5回ほどセルビス(乗合タクシー)に乗り、ベツレヘムにある「ホーリーファミリーケアセンター」というところに通ってボランティアをすることになった。そこはフランシスコ会のシスターたちが中心となって、近隣の貧困家庭の支援やトラウマもつ人たちのカウンセリングや情緒障害児たちのためのクラスの運営などをしているところだった。「ボランティアをする」とは言っても、「音楽バカ」だったのにその音楽すらなくなったただのバカだと自覚していた私は、自分にできることなど何もないと思っていた。しかし、シスターたちは「さて、ユリコには何をしてもらおうかねぇ?」とにこやかに話し合い、本の整理や部屋の掃除や皿洗いなど、毎日いろんなことを頼んでは、いつも「ありがとう!とても助かったよ!」とお礼を言ってはハグをしてくれた。そのうちに、私の仕事は少しずつ定まっていき、仕事の中心は情緒障害児たちのためのクラスに行って子どもたちと遊ぶというものになった。

 そこには、普通の学校ではみんなと一緒に過ごすことができない子どもたちが6人いて、オランダ人の先生1人とパレスティナ人のアシスタント2人が働いていた。子どもたちはとにかく落ち着きがなく、一人で喋り続けたり突然怒り出したり泣き出したりすることが多かった。一人ひとりの具体的な事情を知ることはできなかったが(外部の人には話さない規則)、ほとんどの子どもは家で虐待をされているようだった。先生は、「ここの子たちはオランダの子どもたちと全く異なるわけではない。紛争地でもそうでなくても、同じような問題がある。でも、紛争地ならではの問題もある」と教えてくださった。
 先生が見せてくださった子どもたちの絵の中に、真っ黒に塗りつぶされた絵があった。「この子はね、初めは家を描いていたの。家の中に家族も描いていた。でも描いた後、黙って静かに、すべて、上から黒で塗りつぶしてしまった。あの子にとっての家は、そういうところだということなんだろうね」と話してくださった。教室には子どもらしいカラフルな絵が何枚か飾られていたけれど、そんな絵の合間に、妊婦が兵士に銃剣で刺されている絵も混じっていた。

 アラビア語のできない私は何をしていいかよく分からなかったので、とにかく子どもたちに笑いかけ、抱きついてくる子を抱きしめていた。お陰ですぐに人気者になり、子どもたちが競って「ユリコ!ユリコ!」と集まってくるようになったので楽しくて仕方なかった。子どもたちが何かアラビア語で話しかけてきたときは、先生に通訳をお願いすることもあったが、もっぱら適当に日本語で答えていた。そこになぜかコミュニケーションのようなものが成立することもあり、横で見ているスタッフが面白がっていることもあった。楽しいけれどかえって邪魔をしているのではないかと心配になって先生に確認したところ、「いいえ、安心して甘える機会を少しでも多く子どもに与えることがあなたの仕事です。この学校では、これが一番大切なことなのです」「あなたがいなくなっても『ユリコは自分を愛してくれた』という記憶は残るのです。人にとって『自分が愛された』という記憶は命綱、溺れたときに必死でつかむ命綱のようなものなのです。細い命綱でも、短い命綱でも、何本もあれば、そのどれかを掴んで生き延びることができるかもしれない」と説明してくださった。

 

 ジョージという6歳の男の子は栄養失調児だった。クラスではとても甘えん坊で楽しそうに動き回っている子だったが、前の学校では他の子を叩いてばかりだったため追い出され、このクラスに来たということだった。「彼はいつも父親に殴られていたから、叩く以外にコミュニケーションの方法を知らなかったんだと思う。彼はこの学校で初めて別のコミュニケーションの方法を学んだのよ」とシスターが説明してくださった。
 ジョージの家には、ソーシャルワーカーや保健師と一緒に何度か訪問したことがある。家でのジョージは本当に攻撃的で、1,2時間一緒にいるだけでヘトヘトになった。母親は疲れ果てた様子で子どもにはあまり興味がなさそうだったが、その母親の興味を引きたいのか、ジョージは引きつった笑顔を顔に貼り付けて、ひっきりなしに誰彼かまわず攻撃し、ものを投げつけていた。ジョージが奇声を上げながら生後半年足らずの栄養失調の妹を思いっきり叩いて踏みつけようとしたので、急いで引き離したことがある。その時の、怯えきった表情で私を見つめていた妹の眼差しを今でもよく思い出す。
 どうしてこの家が貧しいのか、どうして父親が子どもを殴るのか、具体的な理由は私には分からなかった。ただ、彼らの属する社会の歪みが弱者弱者へと次々にのしかかり、子どもたちがその最後のカードになっていると知ったのだった。

 3ヶ月の滞在中、私は度々検問所を通ってイスラエル側に行き、観光をしたり用事を済ませたりしていた。あの日、私はパレスティナで知り合った青年にイスラエル側に行ったときの話しをし、何気なく彼に「あそこには行ったことある?」と訊いたのかもしれない。自分が何を話していたかは覚えていないが、彼が肩をすぼめて「僕はイスラエル側には行けないんだよ。検問所を通れない。Because I am a Palestinian, as a terrorist.」と笑いながら言っていたことだけは覚えている。

 ある日、イスラエル側に行ったときに何気なくテレビを見ていたら、バラエティー番組をやっていた。男女数人のタレントさんが楽しそうに中央で話しており、それをひな壇に座っている若者たちが楽しそうに笑いながら見ていて、ことばは分からなかったけれど、その番組のフワフワした雰囲気は日本のバラエティー番組にそっくりだった。そうか、車で30分もしないところに検問所があって、その先には軍事占領下の暮らしがあるのに、こちら側の日常は私たちと何も変わらないのだ、と実感した。それは私にとって大きなショックだった。
 パレスティナに行く前、日本での勉強会で「平和というのは平穏無事だということとは違うのです。一人ひとりの人権が守られていることを平和というのです。日本は果たして平和なのか。ちゃんとよく見てよく勉強して考えて」と言われたことがあったが、全然ピンと来ていなかった。私はパレスティナから帰ってきた後で初めて日本における差別の問題や人権侵害の問題が少しずつ「見える」ようになったのだ。それまでは本当に見えていなかったし、見えていないということにすら気づいていなかった。

 イスラエル側のハダッサ病院に日本人の友人が入院したことがあったので、ホーリーファミリーケアセンターで一緒に手伝いをしていたリマと一緒にお見舞いに行ったことがある。リマはヘブライ語の堪能なイスラエル・アラブ(イスラエル建国後も難民にならず、イスラエル国内の故郷に残った人たちの子孫)だった。
 友人のベッドの横でおしゃべりをしていると、隣のベッドに入院していたユダヤ人のおばあさんが独り寂しそうにしていたので、リマがヘブライ語で話しかけた。するとおばあさんは嬉しそうにぼそぼそと話し出し、古い家族の写真を取り出し、家族が笑顔で写っている写真を指差しながら1人ずつ説明してくれた。
 「これは私。これは兄。これは母。これは父。これは…(続)」リマが私たちに通訳してくれた。「彼は○○で殺されたの」「彼女は○○の収容所に送られた」「この子は逃げている途中で死んでしまったわ」…(続)……
 静かな声で、ぼそぼそと、何十分もそんな話が続いた。彼女は、殺されていった家族の中で、唯一生き延びてイスラエルにたどり着くことができた、幸運な、ユダヤ人だった。
 帰りの車に乗り込む時、リマは「朝からあんな話を通訳するのはつかれたよ~」と笑いながら言った。それから、リマは黙っていた。いつもイスラエル政府のやり方に怒り、検問所のイスラエル兵に怒り、「見てよ。これがイスラエルのやり方なのよ」と私に説明してくれていたリマは、黙って、もう、その話には触れなかった。

 パレスティナから帰ってきた時、私は会う人会う人みんなに「変わったね」「元気になったね」と言われた。どうして元気になったのか、その理由は具体的には分からないが、多分、私はあの地で、私には想像もできない絶望があることを知り、「私には想像もできないような絶望を知っている人は、私には想像もできないような希望を知っているのだ」ということを知ったのだと思う。それで私は変わり、それで私は元気になったのだと思う。
 あともう一つ。パレスティナで居候させてもらっていたところで一緒に作って食べていたご飯が毎日美味しくて(現地の野菜は味が濃く、乳製品もお豆類も美味しかったので何を作っても美味しかった)、ホーリーファミリーケアセンターでご馳走になるおやつも美味しくて、ベツレヘムの聖誕教会前にある広場(聖誕教会の真向かいにはモスクもあった)の売店でよく買っていたピタパンとファラフェル(ひよこ豆のコロッケ)も美味しくて、私は3ヶ月間の滞在中に6キロ太ったのだった。それで私は変わり、それで私は元気になったのだと思う。

 

 パレスティナから帰ってきた後は、渉外法律事務所の事務員として無事就職することができ、そこで2年間ほど働いた。その間もパレスティナに連れて行ってくれたNGOに関わり続けていたところ、「事務局で働かないか」と声がかかって転職し、1999年から2005年までの6年間はNGOの事務員として働いた。ヨルダン川西岸地区のベツレヘムにある難民キャンプやヘブロン郊外の貧しい村、ガザ地区のハンユニスに住む母子を対象にしたいくつかのプロジェクトに関わる事務仕事をした。
 事務局で働いていたとき、現地から帰国したMさんが、難民キャンプにいるラミアという女性が言っていた言葉を教えてくれた。「生き延びること。それが私たちに残された最後の抵抗の手段なのよ」という言葉だった。このことばを聞いてから、私はずっとこのことばをお守りのようにしてきた。
 NGOでの仕事をする中で、私は「『希望』というものはどこかに在るものではなくて、自分の経験や知力など持てるものすべてを注ぎ込んで、他の人と助け合いながら、日々どうにかこうにか紡ぎ出していくものなのだな」と知った。

 イスラエルの軍事攻撃をどうして止めることができないのだろう。どうしてイスラエル政府はこれほどの殺戮を毎日続けられるのだろう。どうして私たちの政府は停戦を訴えることすらしないのだろう。日々のニュースを見ながら、悲しみや怒りと共に、ずっと疑問を抱いていた。そしてふと、エルサレムにあるホロコースト博物館に行った時、博物館の中庭に若いイスラエル兵たちが集まって説明を受けていたのを思い出したのだ。イスラエル軍に入隊するとこのホロコースト博物館に来ることになっていて、「もう二度とあの惨劇を繰り返さない」と、ここで決意を新たにするのだと説明されたことを覚えている。軍務につけば占領下のパレスティナ人と日々対峙することになるだろうし、いざ紛争となれば任務としてパレスティナ人を殺すことにもなる兵士たちが、ホロコースト博物館に行き、「もう二度とあの惨劇を繰り返さない」という決意を新たにするとは、一体どういうことなのだろう。
 私は、「ホロコーストの惨劇を繰り返さない」ということばを、「これから私たちは、誰もが(特にユダヤ人が)差別されず、殺されず、安心して生きていける世界を作っていく、作っていかなければならない」という決意を表現したものだと思っていた。しかし、それは大きな勘違いだったのかもしれない。
 イスラエルの建国が実現したのは、ホロコーストの惨劇を目の当たりにした欧米諸国がシオニズム運動を支持したからだと教わった。しかし、イスラエルの建国は、もともとその地域に住んでいた人たちを追い出し、虐殺し、占領することで実現したことだ。とすると、欧米諸国の「ホロコーストの惨劇を繰り返さない」ということばは、差別や虐殺を否定するものではなく、「差別されて虐殺されたあなた達ユダヤ人がもう二度とこのような目に会いたくないのであれば、力を手に入れ、差別し虐殺する側(強者)になることによって、自らを守りなさい」というメッセージとして、イスラエル建国を実現した人たちに届いたのではないだろうか。
あぁ、だからイスラエル政府は攻撃を止めようとしないのか。自分たちの「平和(平穏無事であること)」を守るために信頼できるのは力だけだ、自分たちの命(生活)を守るためには、自分たちが相手を殲滅させるほどの力を持っていることを分からせなければならないのだ、と確信しているのかもしれない。
 いくらパレスティナ人の赤ん坊や子どもの犠牲を訴えても、イスラエル政府には何も響かないのだろう。彼らにとって、パレスティナ人はすべて「Palestinian, as a terrorist」なのだから、赤ん坊だろうが子どもだろうが、殺すのは自衛権の範囲内だと思っているのだろう。そして、今のガザ攻撃をジェノサイドと呼ぶ人たちに対し、「お前たちは何もわかっていない」と思っているのかもしれない。ユダヤ人はホロコーストで600万人犠牲になったのだ、今回の犠牲者の数などどうということはない、と思っているのかもしれない。

 凄まじい破壊と殺戮の現場を手の中のスマートフォンの画面越しに目の当たりにする毎日の中で、私は、画面の向こうの現実をどのように受け止めて、自分の日常生活とバランスをとって行けば良いのか、分からずにいた。国際政治の問題や戦場の現実はあまりにも遠くて私の手には負えない問題だと認識しつつも、確かに今のこのイスラエル・パレスティナの現状は私の今の日常に関わることなのだという確信があり、それが何なのか、どのようにことばにすれば良いのか、毎日考えていた。そして、以前、このエッセイの4で引用した下記の文章を思い出した。

 

  排斥の理由を問い、その不当性を問い返す機会そのものが、剥奪されているのである。

  『おまえは・・・・・・なのだから、こう扱われても当然だ』と、不当に扱われたとき、

  そうした扱いに抗議するならば、そう抗議したということが、そのまま更に不当な扱い

  の口実にされてしまう。i

 何世代にも渡って、ユダヤ人というだけで、パレスティナ人というだけで、差別されて不当な扱いを受け、生きる場を奪われ、命をも奪われてきて、そのことに対する抗議がさらなる不当な扱いの口実にされてきたという現実の積み重ねの上に、今の虐殺がある。
 しかし、以前にも書いた通り、上に引用したような状況は現在の日本でも、「子ども」「障害者」「女」「外国人」「普通じゃない(マイノリティ)」などなどという理由で、いたるところで起きている現実だ。そして、マジョリティであっても強者であっても、実はこのような「傷つける表現」に晒されてきた人が殆どだと思うのだ。
 あぁ、そうか。だから、私たちの社会が選んだこの国の政府は、この虐殺を止めようとすることすらしないのだ。いまパレスティナで起きている虐殺は、この世界のあり方がたまたま極端な形で現れているだけであって、そのあり方を変える必要がないと思っている人たちには「仕方がないこと」で済んでしまう問題なのかもしれない。
 私は、パレスティナに行ってから、このような不当な扱いが日本のいたるところにもあることが「見える」ようになった。自分が非正規雇用で働くようになってからは、自分自身が不当に扱われていることに怒り、それでもその不当性を抗議すれば契約を更新してもらえなくなるだけだ、そうしたら生活できなくなるからと諦め、何度も夜中に悔しくて泣いた。そして、ずっとイライラと怒っていた。こんなことが当然になっている社会は嫌だ、でもこんな現実を変えるために私にできることが何かあるんだろうかと思っていた。
 きっと、だから私は今の仕事に転職したのだと思う。児童養護施設で出会う子どもたちやその家族がどのような人間なのかを勝手に決めつけないで、一人ひとりを異なる人間として、自分の想像を超えた他者として尊重し、誠実に向き合おうと努力することで何かを変えたい、と思ったのかもしれない。

 先日、児童養護施設のファミリーソーシャルワーカーを対象にした研修に参加してきた。そのときに登壇していた講師の方が、「最後に、皆さんに一言」と促されて仰っていたアドバイスが印象に残っている。それは、「この仕事で大切なのは、見返り(成果)を求めないことと、諦めないことです」というアドバイスだった。
 きっと世界中で色んな人が色んなことを考えていると思う。何をしてもなんの成果もないように思える中で、諦めずに動いている人たちが世界中にいるのだと思う。
​ 私は毎日「生き延びること。それが私たちに残された最後の抵抗の手段なのよ」というラミアのことばを思い出す。しかし今、その「最後の抵抗の手段」が日々容赦なく徹底的に潰されていくのを目の当たりにしている。これほどの強大な力の前で、生き延びることなど不可能だと、毎日思い知らされる。しかしそれでもなお、自分のために再びラミアのことばを思い出す。「とにかく生き延びる。まずはそこからだ」と自分に言い聞かせる。

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大庭健「傷つける表現」藤野寛・齋藤純一『叢書=倫理学のフロンティア 表現の〈リミット〉』(ナカニシヤ出版、2005)47

ユリコ:1971年生。法律事務所の秘書、小さなNGO団体の一人事務局員、子ども英会話教室の講師、大学事務の仕事を経て、現在は児童養護施設で働いています。

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