学園坂出版局ではジャンルを問わず、さまざまな書き手によるエッセイを掲載していきます。第1弾は、異色の福祉施設職員・ユリコさん。音楽や法学を学び、パレスチナでボランティア活動もされていたというユリコさんのふわりとした文体、それでいて実は思考の緊張を強いられるテーマ。わたしたちは果たしてこのエッセイからどんなことを汲み取れるでしょうか。全10 回を予定しています。

​掲載日.2021/12/05 essay No.4

家族について考える 4

ユリコ

「母」と音楽

 

もう、自分が母になることはないのだな、と腹の底から納得したのはいつだっただろう。40代の後半か。いや、「腹の底」はまだ納得がいっていないのかもしれない。もう母になることはない、と思った後から、改めて、自分の体全体が母になるように創られていたことに意識が向くようになり、自分の体に対して今も申し訳なさを感じている。

小さい頃から、いつも「生まれてきてくれてありがとう」と言っていた私の母は、「わ・た・し・はかわいい~、着せかえ人形~♪」という歌が大好きで、私が大学生になっても、歌いながら「ユリコは私の着せかえ人形なのよ!」と冗談でよく言っていた。母は専業主婦で、兄2人と私を育て上げたことが自分の唯一の自信だと言っていた。だから、娘の私の幸福も、「結婚して子供を生み育てること」で叶えられると信じ、それと同時に、自分が子どもの頃にできなかったことを、私に託していたのだと思う。

祖父(母の父)は終戦の3日前に戦死し、戦後、祖母は一人で母たち3人の子供を育てた。とても貧しかったそうだ。それでも母の姉と弟は優秀で、奨学金で大学に行ったが、母だけは大学に行っていない。それでどれほど悔しい思いをしたか、とよく泣きながら話し、兄たちには良い大学に行けるように勉強させようとお尻を叩きまくる教育ママだった。一方で、私の勉強については何も言わなかった。逆に、私が学校のテストでいい点数を取って嬉しくて母に見せた時には、少し困ったような嫌そうな表情を浮かべた。「頭が良い女性は嫌われやすい。性格が良くて可愛くないとね」とよく話していたので、あぁなるほどテストの点数を自慢するのは可愛くないのだな、と子供心に理解したことを覚えている。

そんな母にとって「音大卒」の女性は、「大卒」だけど頭はそれほど良くなくて安心してお嫁にもらって戴ける「お嬢さん」であり、音大に行かせれば、私はきっと幸せになれると思ったのだろう。私は小学生の時に母に言われるままに音大付属の中学を受験して入学し、そのまま付属高校、音大へと進んだ。自由な校風の中で、一度も制服を着ることもなく、一度も偏差値で測られることもなく、呑気で楽しい中高生時代を過ごした。

高校まではピアノ専攻で成績は可もなく不可もなく、目立たず過ごしていたが、高校3年生の時に、母が「大学はオルガン科に行くと良い」と突然言い出した。確かに、私はベートーベン以降のピアノらしいピアノ曲があまり好きではなく、バッハや近代曲が好きだったのでピアノの先生にも賛成され、私は流れに身を任せる感じでオルガン科に専攻を変えた。大学の大ホールには、当時日本で2番目に大きなパイプオルガンがあり、私の母はそのオルガンを見た時に、「あのオルガンをユリコに弾かせたい!」と思ったのだそうだ。また、熱心なクリスチャンである母は、私に教会のオルガニストになって欲しいと願ってもいた。

オルガン科に入ると、私は学年で1番になった(4人しかいないうちの1番だが)。それまで「1番」になったこともないし、何かに選ばれたこともなかった私は、期待に応えたくて必死で練習した。それまでは「努力」とはあまり縁がなかったので、毎日必死だった音大時代は今でもとてもなつかしい。

オルガンを必死で練習したところで、将来に繋がる展望があった訳ではない。以前書いた様に、大学時代はふと気づくと死ぬことばかり考えていた。「自分はなぜ音楽をやっているのだろう」という問いは常にどこかにあり、その問いは「自分はなぜ生きているのだろう」という問いと直結していた。問いの答えはなかったけれど、オルガンを練習する理由はあった。

楽譜を開いて練習すると、楽譜から自分の体に音楽が入ってくる。毎日練習していると、どうしてこの曲はこんな構造になっているのか、どうしてこのメロディーがここで登場するのか、なぜここでこの音が不意に現れるのか、そんなことが、頭で理解しようとするのとは別のルートで、体を通して徐々に分かってくる、腑に落ちてくる感じがした。毎日何時間も練習していると、ときどき「あ、いま天才の衣の裾に一瞬触れたかも」と感じる様な幸せな瞬間が訪れることがあった。弾きながら辛いことを思い出したり、考えたりすることもよくあったが、同時に、何百年も前に遠くヨーロッパで生きた、自分には縁もゆかりもないはずの天才が作曲した曲を自分がいま演奏している不思議、時空の拡がりのようなものを感じて、思い詰めていることが緩んで解放される感じがした。一人でオルガンを練習する時間が、カウンセリングを受けているような時間になっていたのだと思う。あの時にオルガンを練習することができたお陰で私は自殺せずにすんだのかもしれない、と今は思っている。

大学院に行くと決めたのは自分だった。自分の意思で学びたいと願ったのはこの時が初めてだった。「大学院なんかに行ったら婚期が遅れてしまう」と母は心配したが、半ば強引にオルガン科を勧めたのが母自身だったということもあり、許してくれた。

しかし、残念ながら私が初めて自分の意思で進路を決めたその1年後に、左半身の痺れと背中の痛みが酷くなってオルガンが弾けなくなり、1年休学して様子を見たが結局治らず、私は大学院を退学した。

 

 

退学した後は、音楽には全く関係のない職場で、主に事務の仕事をしてきた。趣味として楽器を弾くこともなく、音楽を聴くことすら殆どなくなったので、「なぜ?」「勿体ない」とよく言われたが、その度に「一方的に振られた元恋人と、お友達として仲良くなんてできないのと同じですよ」と冗談半分に答えていた。退学後1年くらいは体の中心部分がごっそり空洞になった感じがして、少し地面から浮いているような、水の中にいる様な気がしていたが、慣れれば音楽無しでも普通に生活ができるようになった。だから、「No Music, No life」などというキャッチコピーに触れる度に、「いやいや、音楽が無くても人生は続くんだよ」と内心でツッコミを入れたものだ。

音大生だった時に母が私に言った言葉を時々思い出す。「私の時代はね、女性は子育てするか、仕事で生きていくか、どちらかを選ぶしかなかったのよ。でも、今はそういう時代じゃないのよ。今は子育ても仕事も両方できる時代なの!あなたはそれができるのよ!」という嬉しそうな声が今も耳に残っている。しかし私は子供を生むこともなく、音楽も辞め、仕事も転々としてずっと非正規だった。そんな自分を恥ずかしいと感じてきた。特に、差別や貧困などに興味を持ち始めてからは、音大付属の中学から大学院まで行ってお金と時間を無駄に使った自分の脳天気な経歴に罪悪感を持つようになり、できるだけ人には言わないようにしてきた。

 

そんな私が事務仕事の合間に「音楽教室」を始めて1年と2ヶ月が経った。児童指導員から事務職に変わって子どもと直接関わることが殆どなくなり、どうしたものかと思案した結果、思いついたのが、職場の子どもたちに音楽を教えることだったのだ。今は一人30分ずつ、14人ほどの子どもたちに、施設内の体育館の入り口においてあるアップライトピアノや、寄贈されたウクレレやジャンベを使ってレッスンをしている。

「音楽教室」で心がけていることは、レッスンを「楽しい時間」にすることだ。具体的には、レッスンに来た子どもに「今日は何したい?」と毎回訊くこと、子どもがやりたいと言ったことにはできる限り応えること、そして、他の児童と比べて優劣をつけるようなことは決してしない(もし子ども自身がそのようなことを言った場合には否定し、話を変える)ことだ。始めた頃は「毎回のレッスンで、一つでも良いからできなかったことができるようになること」を目標としようと考えていたけれど、今はこだわらなくなった。

前回のエッセイで、「きっと、私にとって理想的な『家庭』とは、自分がダメな人間だと安心して自覚でき、一人ひとり異なるダメな人間がダメなままで大切にされ、生かされる場所だ。それは言い換えれば、社会のルールや暗黙の了解や常識や価値観から距離を置き、生き延びる術を身につけるための逃げ場所だとも言える」と書いた。子どもの頃の私が学んだ音楽は、「社会のルールや暗黙の了解や常識や価値観」に沿った幸せを得るための手段だったと言えるかもしれない。しかし今の私は、音楽が「逃げ場所」になり得ることを子どもたちに知ってもらいたくて音楽を教えているのだと思う。

オルガンを練習していたお陰で自殺せずにすんだと思っている私は、音楽が生き延びるための「逃げ場所」になり得るということを知っている。だけど一方で、私は好きなように自由に音楽を楽しむということを知らずに来た。趣味として音楽を楽しもうとしてこなかった理由を「一方的に振られた元恋人と、お友達として仲良くなんてできないのと同じ」と人には説明してきたけれど、実は趣味として楽しもうと思っても楽しみ方がずっと分からなかったのだ。

だから、どうすれば「音楽教室」が「楽しい時間」になるのかが分からなかった。だから、毎回子どもたちに「今日は何したい?」と訊き、それにどうにか応えようという形になっていったのだ。子どもたちの要望に思い通りに応えられないことが多いので、最近はせっせと自分もレッスンに通うようになった。そして、レッスンを受ける度に、自分が音楽に対してどれだけ不自由かということを嫌というほど自覚させられている。

私は好き勝手に文章を書くのが好きだし、お勉強ならば恥ずかしげもなく間違えることができるし、質問することもできる。(これは、自分が受験や偏差値などと関係なく、好きに勉強をしてきたお陰だと思っている。)それなのにレッスンでは、「自由に弾いて(歌って)みて下さい」という指示が一番怖い。自由になんか歌えないし弾けない。間違うのが恥ずかしいし、できないことや分からないことがバレるのが怖いし、ついうっかり人と比べては凹んでいる。

しかし、そんな私の「音楽教室」であるにも関わらず、子どもたちは本当に嬉しそうに楽しんでいることが多く(もちろん全員がいつもそうだとは限らないが)、そんな子どもたちを目の前にして、私の方が、一体何がそんなに楽しいのかが分からなくてもどかしくなることもある。だけど、つられてこちらも楽しくなっている。

 

     聴く。問う。声を響かせる。

                  対話は手段ではない。

                     それ自体が目的である。

      治癒は副産物としてやってくる。1

  

 

児童養護施設に就職すると報告した際に「敵の大本営に素手で突っ込んでいくようなものだ」と言って強く反対したカウンセラーは、「あなたは、自分が救われるために児童養護施設に就職するんですね」とも言った。子どもたちに音楽を教えるようになってから、何度も何度もこの2つの言葉を思い出す。これはきっと、自分がこの「音楽教室」で救われているという実感があるからなのだと思う。毎回、子どもたちそれぞれが「やりたい」と言うことに応えようとしていると、子どもたち一人ひとりが異なるという「厳粛で微笑ましい事実」に出会う。そして、その事実が私を「救って」くれているような気がするのだ。

 

しかし、どうしてそんな気がするのだろう。そもそも、私は治癒が必要な人間なのか。救われる必要がある人間なのだろうか。

恵まれた家庭で何不自由なく育ったはずの自分、しかも今は曲がりなりにも「支援者」の立場にある私は、自分が「救われる必要のある人間」だなどと言ってはいけないような気がしていた。親しい友人に語ったり私的な日記に書いたりするのならともかく、公の場に書くようなことではないと思っていた。でも今は、私も「救われる」必要があると自覚して良いし、それを公に語って良い、語った方が良いのかもしれない、と思うようになった。

その様に思うようになった理由のうちの一つは、「傷つける表現」について書かれた下記の文章を読んだことだ。少し長くなるが、引用したい。

 

(1)その表現を用いる側と、その表現が該当する側との間には、システムへの参与の仕方に関して、なんらかの構造的な非対称性が存在し、(2)そうした表現を用いて遂行される行為に対して抗弁する機会が、当該のコミュニケーション空間では巧妙に剥奪されている。(中略)排斥の理由を問い、その不当性を問い返す機会そのものが、剥奪されているのである。『おまえは・・・・・・なのだから、こう扱われても当然だ』と、不当に扱われたとき、そうした扱いに抗議するならば、そう抗議したということが、そのまま更に不当な扱いの口実にされてしまう。こうしたコミュニケーション空間においてしか、語ることを許されておらず、したがって語れば、そのまま排斥される、ということこそが、『表現が傷つける』と言われてきた事態の正体である。(中略)そうだとすれば、問題は、コミュニケーション空間の構造的な歪みであって、個々の表現それ自体ではない。3

 

この文章は、ヘイトスピーチの「沈黙効果」について調べている時に出会ったものだ。ヘイトスピーチについての説明だけど、長年非正規雇用で働いていた私は、職場での自分の状況によく似ている、と感じたことを覚えている。そしてまた最近読み直してみて、このような「コミュニケーション空間の構造的な歪み」に類似したものが、家庭や教育、福祉の場にもありふれているのではないかと感じたのだ。

自分を含め、殆どの大人たちは(いわゆるマジョリティーであっても強者であっても)、実はこのような「傷つける表現」に晒されてきた経験があるのではないか。しかし、それで「傷ついた」ということを自覚せず、治癒を求めることもしないために、自分もまた悪気なく「傷つける」側になってしまうのではないか、そんなことを漠然と思うようになった。だからまず、私自身が傷ついていることを書き、その傷がありふれていることを書きたくなったのかもしれない。

 

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1斎藤環『オープンダイアローグとは何か』2015年7月、医学書院

2鷲田清一「京都市立芸術大学平成27年度学部卒業式並びに大学院学位記授与式における学長の式辞」http://www.kcua.ac.jp/information/?mp=72926 をご参照下さい。

3大庭健「傷つける表現」藤野寛・齋藤純一『叢書=倫理学のフロンティア 表現の〈リミット〉』(ナカニシヤ出版、2005)43頁

ユリコ:1971年生。法律事務所の秘書、小さなNGO団体の一人事務局員、子ども英会話教室の講師、大学事務の仕事を経て、現在は児童養護施設で働いています。

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