​宇野邦一『政治的省察』・連続対談

0th

4th

5th

6th

第0回:2019/06/22 
宇野邦一さんと田村均さんの対話

『政治的省察』を読み解く

track 7 / “ヒューム流”プラグマティズム
00:00 / 03:51

//summary//

 宇野 :  太陽が昇るに際して我々が「明日もまた太陽が昇るということは、なぜ確実なのか」と問うと、「我々の習慣的な認知の世界では、太陽は昇ると言って差し支えない」ということになる。こういう非常に積極的な意味での“いい加減さ”が、ヒューム独特のある種のプラグマティズムの印象を与えています。必ずしも、認識の根拠のほうへ遡行するのではなく、むしろ途上で、中間で考えるという方法を徹底しているように思います。

 田村 :  そうですね。ヒュームは、懐疑論から人間を救い出すのは、人間が軽率で、いい加減にやる瞬間なんだ、と言いますね。自分の部屋にいて、世界が在るんだろうか、って考えることはできるけど、外に出て友人と交際しているときに、世界が在るんだろうか、とお前は思ってないだろう、と。

 

 宇野 :  ドゥルーズの哲学にも早くから、そういうヒュームのプラグマティズムへの強い共感がありました。そのドゥルーズがウィトゲンシュタインを批判したのは、どこまでも“命題の真偽を問う”ということに思考を還元するというやり方についてであって、これではコンセプトの生が消え去ってしまうと批判している。ヴィトゲンシュタインは、哲学の暗殺者であるという、そこまで強い言葉さえも彼は言い残しています。もちろんこのような論理哲学の拒否とともに、別の論理を形成することが課題になったわけで、『差異と反復』までは、とりわけそれをめざしていた。

 田村 :  今のお話で、命題の真偽が自明に問えるという前提から入っているのは、『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインですね。それがもうガラッと変わって、言葉っていうのは使うなかでしか生きられない、という後期の考え方になる。記号と世界の対応関係で全部説明できます、みたいな前期の図式はダメだとなる。前期と後期の関係については、大量の解釈がありますけど、後期のウィトゲンシュタインは、命題に対する信頼みたいなものはないです。言語ゲームで考える。

// references //

none.

track 8 / 『政治的省察』の主体、アレントの意志
00:00 / 16:07

//summary//

 宇野 :  それが後期ヴィトゲンシュタインの魅力でもありましたが、問題は言語ゲームの外部について思考することはできないのか、ということになります。ヴィトゲンシュタインはその道だけはつけてくれているといえるかもしれませんが。

 

『政治的省察』は、学園坂スタジオでの講義の書き直し、焼き直しではあるけれど、ここのゼミナールで話していたとき以上に混沌としている。「これを書いている人間が、自分の中に何人かいる」という感じです。ここ数年は、特にこの講義を通じて、“政治”に専ら焦点を合わせてきました。この数年で、自分の中に、今までとは少し違うかたちで、政治が切迫してきたという思いがあります。しかし、政治の現状について問いながら、当然世界で政治について何が問われているか、考えおすことになる。「政治について」、「政治的な立場について」、「物事への政治的見方について」、「政治的行為について」、と問うことになり、これまでもずっと射程に入っていた、権力、国家、生政治、統治といった項目を再検討することになり、後半には政治的自己とは何か、というところに問いがむかっています。具体的な状況論ではなく、原理的な政治論でもなく、いままで扱ってきた問題を再検討しながら浮上してくる特異点に、そのたびにこだわって、政治的思考がいまも固着している何かを、解きほぐしてみたかった。

 

なのでこの本はどうしようもなく混乱してみえるかもしれません。そもそも“記述者としての主体を選択すること”自体がひとつの政治でもある。言葉一つ一つの選択に政治が入り込んでくる。いわば統合失調的状態を維持しつつも、ある一貫した構造をさぐり、ある政治的主体を成形したい。そういう方向が浮かび上がってきたと思います。この書き方自体が“政治的主体”そのものの政治性、主体性とは何かという問題提起でもあればいい。

「人間は事実共同体的な存在であるのに、人間を共同的にしている力を基礎づける手立てが存在しない」。田村さんからのこのコメントを読んでハッとした。個々人のあらゆる行為が、私たちを共同的な人間にする。共同性を形成するのは、個人の行為の集積である。もちろんその行為も、共同性にたえず作用されている。しかしその共同性を基礎づける力が、何かしら裏切られ、奪われ、横領されている。当然ながらここには歴史の力学がある。歴史において人間を共同的にしている力は、国家、資本、そしてもちろん政治として出現してきた。その中で、個々の力が共同性を再構成する力となるとき、今度はそれが色々な葛藤、裏切り、搾取、横領、戦争、暴力…などとして現われる。その渦中から田村さんは、“意志”という問題を取り上げてくれています。


“意志”はまずアレントから受け取った問題でもありました。彼女によれば、意志をはじめて哲学的問題にしたのはアウグスティヌスと初期キリスト教父たちであった。それまでのギリシア哲学では、イデア、精神、理性のほうが問題であって、意志はそれに付随するカテゴリーとしてあつかわれてしまっていた。アレントの『精神の生活』には、初期教父以降、トマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスたちが中世になって“意志”を論じ始め、それが近代ヨーロッパの主体や主権の発想へとつながると書かれている。アレントは他方で、政治の理想をギリシアのポリスに見ている。このように彼女は「政治はギリシアから/意志はキリスト教から」という脈絡を描き出している。しかしアレントにおける“政治的主体性の問題-意志の問題”というつながりは、決して単純なものではなく、また未完に終わった『精神の生活』でも、それほど見えやすい形をえていません。仮に大まかにいえば、意志は、近代の自我、主権、そして欲望の次元に向けて拡張され、他方では、自己と意志の関係、自己の内での対話、自己関係の問題に拡張されうると、言っておこうと思います。

// references //

アレント,ハンナ. 1977-78.『精神の生活』(未完).

track 9 / "意志-政治"論の系譜
00:00 / 08:52

//summary//

 宇野 :  まず一つの展開として、“意志”を問う哲学は、ショーペンハウアーからニーチェへひきつがれていく。ニーチェにおいては、それが“力”という概念に結びつけられる。さらにこの後には“欲望”が問題として登場します。もちろん精神分析、そしてドゥルーズ-ガタリの欲望機械や無意識にもつながります。当然、そこで意志する主体、欲望の主体が何かという問題が出現したと思います。そしてそのような主体そのものを解消するように、無意識、リビドー、身体、そしてそれらを構成する多様な要素のほうへと思想の焦点が移っていきました。

 

アレントはアメリカ独立革命を非常に高く評価していますが、そのアメリカ独立へ直結していく歴史的思想的流れには、ジョン・ロックに代表されたような自然法的な発想があった。政治を、自由と正義と理性による統治と見るロックの発想、この“自由‐正義‐理性”の環なしには、政治について語っても意味をなさない。近代までのヨーロッパの政治的共同性は、いわば“自由‐正義‐理性”と一体の主体という枠組みによって、「基礎づけられてきた」。ところが20世紀からそういったものではない非主体的な、異質な力関係が共同性に侵入し、どんどん増殖し、政治の要にあったものがどんどん解体されていった。この変容に同調して、意志や理性に結びついた自由による統治よりむしろ、無意識や欲望が主導的な要素となっていく。

そのような傾向は端的にファシズムとして結晶した。そんな変容過程の中でヒトラーや強制収容所が生み出されたとも言える。政治は、精神分析のようではないとしても、なにかリビドーを操作し、制御するようなものに変わっていく。「自由のための闘争」ではなく、「自由からの逃走」というような言葉も思い出すわけです。政治的主体は、近代の政治を主導してきた原理と動因を失って、別の主体に、むしろ非主体にとって代わられた。ここにはすでに“民衆がいない”という問題があらわれている。革命を望むような意志を以って自身を理性化する民衆はいない。むしろ民衆は無意識によってファッショ化して行った。民主主義は、意志や理性を根幹の原理として要請したにも関わらず、むしろ独裁的な管理社会のほうになだれ込んで行く。

 

“意志‐欲望‐政治”のリンクを再考することがドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の提案だっとすれば、まだこの考察を続ける必要があると思います。グローバル新自由主義‐資本主義は、確かに新たに構成された欲望の体制でもあります。もちろん、無意識はただ独裁や全体主義に向かったわけではなく、別の創造や革命の可能性でもあったわけです。ヒュームにとっての経験や習慣も、無意識という観点から改めて定義しなおすことができるだろうし、それはドゥルーズが課題にしたことでもありました。

// references //

none.

3

TEL/FAX: 042-202-0423 / MAIL: g.zaka.press@gmail.com               © 2017 by gakuenzaka press