​宇野邦一『政治的省察』・連続対談

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第0回:2019/06/22 
宇野邦一さんと田村均さんの対話

『政治的省察』を読み解く

track 16 / 意志は単数か複数か
00:00 / 04:27

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 宇野 :  田村さんが本の中で「意志は単数(will)か複数(wills)か?」という話をしていたところも印象に残りました。アメリカ人に聞くと常に単数なんだと答える。一つの個人には一つの意志があり、それは分割不可能なものだと。でも田村さん自身は、意志は複数だと考えると書いている。私自身も、一人の私の中に一つどころか、複数の意志があるという発想もしています。同時に、それが一つでなければならないという観点、状況がたしかにあります。

 田村 :  アメリカ留学中のあるセミナーで「一人の人間は、複数の意志を持つことができない」という言葉が出てくる論文を読みました。読んですぐ、おかしいな、日常的に、一人の中に色々な意志が並行して生じるということはよくあるじゃないか、と思った。そこで「なぜ複数の意志を一人は持てないのか?」と質問を投げてみたら、逆にとても驚かれた。彼ら、英語の母語話者の中では、一つの決定をなす実践理性としての意志というのは、その個人を定義している。だから、個人が二つ意志をもっているとしたら、二人になってしまう。個人の意志は最終的には一つでしかありえない、と。この発想はとても興味深かった。そこで日本に帰ってきてから、私の授業を履修している学生たちにアンケートを実施してみました。「一人の人は同時に複数の意志を持てる or 持てない」というもの。数年かけて500人分くらい集まったが、約85パーセントは「持てる」と回答している。「will」と「意志」は、この点で違うんです。

ただ西洋でも、アウグスティヌスまで遡るのなら「ある意志を私が持つと、必ずそれを否定する意志も生じる」とされています。しかも「人間はそういう存在なんだ」と言われている。これを統合して一つの意志にするには神の恩寵が必要になる、というのがアウグスティヌスの考えです。

 参加者 :  しかし近代理性を立てたカント哲学においても「何ものかである」「何かをしたい」というときには、必ずそうでないものが裏に張り付いてくる。アウグスティヌスのような神的なものなしに、人の理性についての複数性が言われる。

 田村 :  確かにカントでも、行為以前の色々な欲求や傾向は複数的にある。ただそれが実践的な“行為する意志”となるのは、あくまでそれらが一つの普遍的法則であるように“一人を一つの個人に統合しつつ動かす”とき。そのためやはりカントでは意志は単数になるはずです。

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track 17 / 意志の条件、選択の複数性
00:00 / 07:39

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 田村 :  東京裁判で裁判長のウィリアム・ウェッブは、天皇の戦争責任について“意志は単数である”という考え方に沿った議論を展開しました。軍人や政治家からの色々な助言があったにせよ、助言を受けて、最終的に戦争をするのがよい、という一つの決断を実際に行ったのは、天皇という一個の意志である。故に天皇にはその決断の責任があるという議論です。最終的な決断を下す主体は、つねに一個の存在としてある、という考え方になっているわけです。

アウグスティヌスの内でも最初「キリスト教徒になろう」という意志と「なるのはよそう」という意志とが葛藤を生じていた。すると外から「取れ、読め、取れ、読め…」という子供の声が聞こえてきて、彼がそれに従い聖書を取って開くと、ある詩句が目に入ってきた。その詩句を機に、自分の葛藤は“キリスト教に帰依する”という一つの意志に統合された、とアウグスティヌスは語っている。これは神の恩寵だったというわけです。

 

私はアウグスティヌスに詳しいわけではないのでアウグスティヌスを離れて言うと、意志することが、無意味である場面というのは思いつきます。例えば、自分が崖から落ちつつあるとき、「落ちまいと意志する」というのは変です。落下の法則に逆らって落ちないでいられる可能性というものが、もはやないからです。自分が落下しつつある状態は、「落ちないことを意志する」という言葉が有意味に使える状況ではないんですね。「意志する」という言葉が有意味に使える局面は、「こっちをしよう」という選択肢と「こっちじゃない方をしよう」という別の選択肢とが両立する局面だろう。「意志する」という言葉は、別の行為の可能性が開かれていないと有意味に使うことができない。この意味で、意志には分裂が内包されるけれど、それを最後に統合するのが人間としての行為だ、ということになる。

 宇野 :  自己犠牲論を通して、田村さんは日本人論をやりたいわけではない。そう書いていたのも、印象に残っています。例えば西洋的な“罪”の意識とは異なり、日本人においては“恥”の意識(世間や他者に対して恥ずかしいという意識)が勝っているという、ベネディクトのような論を展開したいわけではない。「国民性」を考察するとは、それ自体が条件づけられた考察で、その条件自体を冷徹に反省しておく必要がある。そのうえで、 “日本人”の「イデオロギー」という問題と、西洋のキリスト教的な原則との対照性はやはりある。西洋的なものに関しては、例えばフーコーが分析したキリスト教的牧人権力のシステムは無視できないことでしょう。つまり人間一人一人に対して、自分でその内面を自己管理するように働きかけることで、全体を制御する。そういう自発性の権力。これが意志や道徳の問題へと連綿と続いてきているかもしれない。そしてそこには、そういう牧人権力の世界で、ヒトラーさえもまた出現したという事実も出現する。もちろんナチズムをひとつの権力機構だけに還元することはできない。

 田村 :  私の場合、西洋哲学を勉強するにしても、基本的には日本語にもとづく理解で進むことになる。そうすると、日本語の思考と西洋語の思考の根本的な前提の違いに気づかざるを得ない。それに気づいたときに、その違いを忘れて全く西洋的な発想に乗り移ることも、逆に日本人であることを強く主張することも、いずれもつまらないと思った。むしろその差異から、日本語的な思考と西洋のそれとに共通するものを改めて見出したいと思った。

 

自己犠牲という主題が面白いのは、犠牲sacrificeや自己犠牲self-sacrificeという現象が人類全般にあること。動物を殺して神に捧げるという儀式は広汎に見い出される。もしかしたら、旧石器時代にも既にあったかもしれない。生き物を殺して神に捧げるというのは、権力とのコミュニケーションの一つの方法だった。これを共通の土俵とすれば、その上でどのように西洋と日本との対比が生じるのかを、問題にすることができると考えた。

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track 18 / 政教分離の不可能性
00:00 / 08:15

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 参加者 : 「政教分離というものが、今日の政治形態において本当になされているのか」という点を田村先生にお聞きしたいと思います。例えば“一人が一票入れる”という民主的な選挙は、いわば“一人につき一つの意志を示す”というコンセプトの実践。“一つの意志=一人の個人”がキリスト教的な発明だとすると、選挙制度の根本に既に宗教性があることになる。

 田村 :  経済学などの西洋の色々な学知は、どれも基本的に「一人の人間は、どんな状況でも、最善の選択肢を一つ見いだすことができる」という暗黙の了解の上に成り立っている。これは合理的個人という概念の核心にあると思いますが、根本的には「一人の人間が、自身の内側から一つの真の神を見出す」というキリスト教的な発想に由来する。そうした概念の成り立ちを見ると、宗教に基づくコンセプトと一切無関係な政治的共同性を作るというのは難しいだろう、と私は思います。

 宇野 :  信仰の他に“信頼”という日本語もあります。ドゥルーズの映画論には、croyance (信じる“croire”こと)というフランス語が、決定的な言葉として出てきます(英語だとfaithにあたり、信仰とも信頼とも邦訳されるだろう)。「世界はもう信じることのできない悪しき映画のようになった。しかし映画にこそ信頼を見出し得る」というような転倒的なことをドゥルーズは言います(※)。またスピノザは“全能の神”を人称的に、人格として捉えるような信仰を粉々にした。それによって確かめられるのは、むしろこの世界、生命、身体への“信頼”です。こうした考え方がスピノザからドゥルーズへと連綿と続いている。このごろベケットを訳してもいますが、彼は徹底的な無神論者であるとしか思えないけれど、にも関わらず彼の作品には“croyance”の問いが根底に流れていると感じます。西洋近世以降の知の歴史は、“キリスト教と如何に決別するか”という闘いでもあった。だがその闘いを通じて“来世への信仰”を消し去る中で、今度は色々な局面で“現世への信頼”が問われているのではないか。しかし宗教論争はまだ、宗教ではない場面で、続いているともいえます。

(※)例えば、下記参考文献p279(原文=Deleuze, Gilles. 1982. "Cinema2 L'Image-temps", Les Éditions de Minui.p261)。

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ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006.『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

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references

アレント,ハンナ. 2003.『責任と判断』.

アレント,ハンナ. 1977-78.『精神の生活』(未完).

バーマン,ハロルド J.1983. 邦訳:2011.『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.

クラストル,ピエール.1974.『国家に抗する社会』.

ドゥルーズ,ジル. フェリックス・ガタリ.1980.『千のプラトー』.

ドゥルーズ,ジル. 1985. 邦訳:2006.『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一他訳), 法政大学出版局.

田村均, 2018.『自己犠牲とは何か』, 名古屋大学出版会.

Tomasello, Michael. 2014. "A Natural History of Human Thinking", Harvard University Press.

Tomasello, Michael. 2016. "A Natural History of Human Morality", Harvard University Press.

ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016.『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.

構成協力: 泉順太郎 (映像哲学)  

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