music dance poetry arts and philosophy
学園坂出版局よりお知らせ
・映画監督・坂上香さんの講演会「対話するってどういうこと?」を開催します。(8/22更新)
・ユリコさんのエッセイ風論考「家族について考える」6を公開しました。(11/21更新)
・2023年12月1日、小笠原もずくバンドライブを開催します。(11/11更新)
・2022年9月10日『生かされる場所』のCD発売記念ライブが開催されます。詳細はこちらをご覧ください。(8/5更新)
・「思想ゼミ」宇野邦一さんの連続講座を「器官なき身体と芸術」vol.15(2022年2月)でいったん終了します。アーカイブ視聴のお申し込みは受付中です。(3/13更新)
track 10 / 西洋的原動力=共同体を覆す個人
//summary//
田村 : 革命という事象は、西洋の中世から現代に至る過程でとても重要なことなんだ、という法制史家の研究があります。ハロルド・バーマンのLaw and Revolutionですが、近代を六つの革命で定義する。まず最初が教皇革命。ローマ教皇が叙任権闘争で世俗君主から権力を取り上げて、ローマ教会という市民社会のひな型みたいな制度を作る、そういう革命です。それから、ドイツのルターの革命がある、次いで、スコットランドのカルヴィニスト、清教徒の革命ですね、さらにフランス革命とアメリカの革命があって、そして最後にロシア革命がある。最初が、ローマンカトリックの革命、次がルター派の革命、そしてカルヴィニストの革命、フランス革命は理神論者の革命、アメリカ革命は、カルヴィニズムと理神論の併存した革命、そしてロシア革命は無神論者の革命、こういうふうにキリスト教思想で分類しています。革命は、要するに、わたしが本当の神を見た、わたしの見た神が本当の神で、世間が信じている神は偽物だ、と。そういう仕方で起こる。ルター派の場合は典型的で、ローマ教会の聖職者がいて、その下に信徒が抱え込まれている。でも人々はその教会組織の外に出て、自分で聖書を読み、真の神を見出すことによって、現実の教会を倒す、そういう構造がある。個人が、共同体から飛び出してこれこそが本物だ、という理念をつかんで、それによって世界を全部変えてしまうという、そういう運動で西洋はできている。バーマンはそう見ているようです。
宇野 : そこでは“信仰”という動機が、共同性の問題を超えて優先的に出てくるわけですか?
田村 : 共同体が信じている事柄と、共同体から飛び出した個体が信じている事柄とがあるときに、共同体から飛び出した個体の信じている事柄の方が勝つ、というのがヨーロッパの動力だっていう、そういう発想だと思います。周りがどんなに違うことを考えていても、個体が自分で見た真理や善や美の方が、本物である可能性がある、というふうにヨーロッパの思想は考える。それを成り立たせているのが、自由であり、個体の意志である、そういうことだと思います。
宇野 : それが、自由な意志に先導される革命のかたちでもあると思うし、決してそれが終わったわけではない。しかしそのような革命とともにあった数世紀にわたる政治が終わりつつある。アレントの政治思想は、失われた政治、政治の喪失に対する深い危機感とともにあったが、まだそれへの信頼があったからこそ表現されたものでもありました。東西ドイツの統一やソ連の解体、アラブ革命も、ある種の革命であったと同時に、むしろ政治の解体、溶解をひきおこしています。
// references //
バーマン,ハロルド J.1983. 邦訳:2011.『法と革命〈1〉欧米の法制度とキリスト教の教義』(宮島直機訳), 中央大学出版部.
track 11 / 情念的主体性、個人の消滅、政治の蒸発
//summary//
参加者 : 「本当の神」「本当の真」という場合の、“本当の”は“超越性”という意味でしょうか?
田村 : 超越性という意味。しかし、「超越者を見た」といった時点で、それは超越性でなくなる。だから、超越者を見たと言ってる人間は、常に偽物の可能性がある。でも時々本物がいるときがある。共同主観性からは見えない領域を個人がもってるってことを認めるかどうかです。肉体とかプライバシーっていうのは、共同的な言語によって語り尽くせない。そこが拠点になる。
参加者 : 共同体の内に“個人”というかたちで外部性が作られる。
宇野 : “主体化”という言葉が浮かんできます。『千のプラトー』の「記号の体制」というかなり奇想天外な章は“情念的主体化”について論じている。これは旧約聖書の預言者たちに始まる主体化のタイプのことで、イエス・キリストからデカルト的コギトまでも通じている。義の人でありながら、神から見放される、“神を裏切る”。これが信仰を劇的に補強する。新たに信仰が主体化される。西洋近代の革命にまで、このような主体化のドラマが続いてきたとも言える。
田村 : 違和感に突き動かされると、共同的な言説によって説明できないような行動を人間はとる。それが次に来る真理や善や美の芽生えだということが認められないと、世界は窒息する。日本の近代思想を少し見ていくと、興味深いのは、すぐ、主客未分の状態を言いたがる。近衛内閣の文部大臣だった橋田邦彦という、敗戦後に自殺した生理学者がいますが、この人が書いた科学エッセイのなかに、科学者の認識は、最終的に、科学者である主体と客体である自然が一体化したようなものにならなきゃいけない、とあります(「自然の観方」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1245178)。これは科学者の発想として異様に見えます。科学は、これこれが分かったとなっても、まだ分からないところが残る。自然と自分が完全に合一することはないはずです。でも、橋田は合一を求めるんです。違和感がもう起こらない状態が実現可能だと考えられている、日本では物心一如、主客合一というのがすごく好まれて、これ、日本の思想の病気かもしれない。
宇野 : 井筒俊彦の東洋思想論も、「仏教でもイスラーム、カバラでも、最終的には皆、それらに分節化する以前の“同じ起源”に行き着く」という発想を取る。分節こそが悪であるという、日本にも絶対的無分節の思想を洗練してきた仏教の伝統があります。そしてこれに対して一時期、駒澤大学の仏教学者を中心に激しい批判が起きたことがある。
田村 : 天台本覚思想を批判していたグループでしょうか。たしか、彼らは「山川草木悉皆成仏こそが諸悪の根源なんだ」と批判していた。「何もせずともそのままで完全である」という合一性を掲げるのは、いい悪いは別にして、近代とは全然違うと思います。西洋の“近代”とは全く異なる傾向が確かに日本で起きていた。
宇野 : 日本的現象といえるかもしれないが「政治があたかも存在しないかのようにして、政治が持続し機能する」という状況が根強く持続しています。政治という問題の次元を分解し、文学や美学、ある種のモラル、人生観、自然主義へと散逸させてしまう状況。また権力や力関係の次元があたかも存在しないかのようにして、しかもそれを忠実に反映し分節する政治と政治的行動。政権の努力は、もっぱら国民を政治に無関心にすることにむけられる。政治を隠蔽して、政治自身が持続するという状況。政治がないかのように政治を実践するやり方。こういう状況を痛感してきたことが、この本を書いた一つのモチーフでした。『政治の砂漠』というタイトルを考えてもいました。
// references //
ドゥルーズ,ジル. フェリックス・ガタリ.1980.『千のプラトー』.
track 12 / 絵という権力
//summary//
参加者 : 自分は美術を制作している。先ほどの主権の変移の話は、美術史とリンクしていて興味深かった。美術は(神や聖人が主題の)宗教画に始まり、君主や権力者などの肖像画を描くようになり、そして民衆や個人を描くようになった。しかし今日の美術では“個人”という表現単位までも解体している。その中で私自身は“共同体”を問いの基盤にして作品を作っているので、それと関連したかたちで政治についても考える。
田村 : それはもの凄く面白いですね。
宇野 : 先ほどの“共同行為”は英語では何と?
田村 : 英語で共同行為というときは、“joint action”、という言い方をよく見ます。二人でもそれ以上でも、複数での行為であればこう言うようです。また特に、ある文化的な共通性があって、それに基づいてどの人とも共同行為できるという、普遍的文化的な基盤がある状態での共同行為を、“collective actions”。と言う場合もあります。
参加者 : “描く”という(共同的でもある)行為は今日、“何かを表象すること”ではなくむしろ、“何か(矛盾など)を露呈すること”になってきている。
田村 : ケンダル・ウォルトンの『フィクションとは何か』を邦訳したのですが、ウォルトンによると、絵を見ると人間は何か想像する。絵は想像のきっかけになる。ある想像を命令しているのが芸術作品なんだ。あらっぽく言えばこういう話をします。抽象画を見るときでさえ、例えば“あの図形はこの図形よりも奥にある”と認識させるような抗いがたい命令がなされていると言えます。どんな絵もこういう想像力への支配を行なう。この想像力の支配のあり方が、絵画をきっかけにして神を想像することから、ついで君主を想像することへ、そして個人へ、さらには個人のimpressionsへと移って行く、と言えるかもしれない。
物は一般に人の想像を促す力を持っているという考え方は、ウォルトンの出発点になっています。これはデズモンド・モリスの挙げる例ですが、人間の幼児の目の前で丸を描き、その中に幾つか点を打って行くと、ある時点でそれを“顔”と認識する。チンパンジーだとこういう飛躍は起きず、単なる点と丸の図としてしか認識されない。でも、人はそれを顔「として」見る。点や丸の集まりという物が、“人間に”想像させ、思考させる力を持つわけです。菊の御紋章や靖国神社の桜など、一定の想像を促す強い力を持っていて、一定の意味を成します。そういうふうな政治と美術の明らかなつながりも表象にはある。
// references //
ウォルトン,ケンダル L. 1990. 邦訳:2016.『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(田村均訳), 名古屋大学出版局.
目次
page.1
page.2
page.3
page.4
10. 西洋的原動力=共同体を覆す個人
11. 情念的主体性、個人の消滅、政治の蒸発
12. 絵という権力
page.5
page.6
4