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​宇野邦一『政治的省察』・連続対談

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第0回:2019/06/22 
宇野邦一さんと田村均さんの対話

『政治的省察』を読み解く

track 4 / 最悪の政治
00:00 / 10:03

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 田村 : 「最悪の政治」も非常におもしろい話です。二つの最悪の政治が浮かび上がっています。ひとつは、もう考えるということが止まってしまって、最悪も最良も思考されない事態。もう一つは、フーコーのいう牧人権力です。いずれも個人の意志が無意味化されてしまった状態が語られているように思います。

 

一つ目の方は、管理社会の極限的な状態を意味すると思います。管理者側が、適当な誘因刺激(インセンティヴ)、「こうすれば、こういう良いことがあるよ」という刺激を巧妙に配置して、皆はそれに動かされていく。皆が、自発的に行動することで、実は操作され、管理されている。そういう状態です。こういうとき、人間は考えているように見えるけれど、どの誘因刺激に従うと自分がいちばん得をするかを考えているだけです。自分がどういう欲求をもっているか自分で対象化し、どの欲求に従うのが最も良いか考えて、そうやって欲求を選んでいるのではありません。チャールズ・テイラーという哲学者の考えですが、こういうとき人は最大の快に引き寄せられているだけで、自分のあり方をみずから選んではいない。その意味で個人の意志は無意味になっているのです。

もう一つの最悪状態はフーコーの“牧人権力”ですが、これはキリスト教的な権力です。神の代理人として、ローマ教皇や司祭がいる。代理人が神に代って人間に対する牧人の役割をになう。人間は、魂と肉体を持ち、それを統合する一つの意志によって、神へと向かう。これが神への愛です。愛は意志なのです。神は、牧人を媒介にして、人間の内面に入ってきて、神の意志に合うような意志が正当化され、唯一のものとして浮かび上がってくる。もし間違ったことをすると「あなたは本当はそんな人でない」と言われる。自発的に、自分を善い方向、つまり神の方向に振り向けることを求められる。この場合、個々人の意志は、神の意志を内面化するための受け皿に過ぎないものになる。このように個人の意志が無意味化してしまうことが、「最悪の政治」に出てくる二つのパターンに共通していると思います。

で、ここからどうやって抜け出すかというと、結局、牧人権力の場合、自分が一個でまとまってしまうと、神に乗っ取られますから、自分をまとめちゃダメなんです。教会の都合でもって語りかけてくる牧人に対して、それに合わせて思考する自分もいるけれど、牧人の視線から外れた、牧人には見えないところで、なんか変だなと思っている自分もいる。この二つの自分が「自己との対話」を形成する。この二つの層をもち続けていないと、生きる力そのものを乗っ取ろうとして介入してくる生-権力、ビオ・プゥヴォワール(bio-pouvoir)と戦うことはできないんじゃないか。そう思います。

それから、「自己との対話」について。まず、考えるとは、言語を使って考えるんですね。私は日本語で考えています。日本語は共有のものです。日本語のなかに用意されている推論とか、連想とか、感情とか、私も共有していて、それを使って考えているわけです。でも、考えているのはこの私です。私はこの身体のあるこの場所でしか考えられない。共有のプログラムを使って、でも、この身体が考えている、そういう状態にある。そうすると、共有されている推論や連想に対して、なんか違和感があるということが起り得る。何か違和感があって、自分なりの言葉で返したいと思うけれど、言葉にうまくならない、ということが起こる。言葉にならないときの自分の思考というのは、まだ共有の、共同的なプログラムのなかに吸収されていない自分なわけです。で、この二つの層っていうのが、結局、アーレントが「自己との対話」で言おうとしていることでしょう。

アーレントはこう言ってるんですね。ナチスに協力した人ってどういう人だったかというと、それは原理っていうのをもっている人、いわゆる道徳的な人です。そういう人は、圧力がかかると、原理を取り換えてナチスになってしまう。だけど、原理にもとづかない人、自分自身との対話を忘れない人は、ナチスが来たときに「そんなことはできない」って考える。一方、原理をもっている人は、ナチスが迫ってきたときに「そんなことはすべきでない」って考える。「すべきでない」って考える人は、原理を取り換えて、協力していく。だけど、「そんなことは、わたし、できない」って考える人は、原理によってではなくて、その本人のいわば身体によって考えているので、原理を押し付けられても取り込まれない。だから、ナチスに協力しなかった人は、いわば、原理みたいなものに拠らない思考をしている人だ、というふうにアーレントは書いている。それで、ああ、二つの層という考え方で行けるんじゃないかな、って思ったわけです。で、フーコーの方は、まだよく勉強してなくてはっきりしていませんが、この考え方は、自己への配慮とも通じていくのではないかと思っています。

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track 5 / 大陸系哲学との距離
00:00 / 10:15

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 参加者 :  英米系の思想では、自然科学的な共同性とは“類”として動くということ。この進化論的な共同性を、大陸系(ヘーゲル)なら精神と考えるだろう(或いはドゥルーズだったら機械と言うだろう)。ヘーゲルも一種の汎神論なので“絶対知へ向かい進展する自然史の過程”というものを信じている。しかしその進展の果てで、コジェーブのヘーゲル読解や東浩紀の論が示すように、人間は動物化する。一見明晰な英米系のプラグマティズムも“共同性や類”というかたちで、“大陸系の発想が行き着く、自然史的な果て”に相当する思考停止性に至っているのではないか。つまり英米系と大陸系の両者が、別角度から交差しているところがそうした思考停止性である。最近の反主知主義や用語的混線などによる混乱状態は、このことを示していると思う。

 

 田村 :  英語圏の思想でも、ある種の共有された精神とかイデオロギーによって共同体ができるという話は、当然認めます。それを、英語圏ではどういう手順で考えるかというと、まず人間は動物だと、動物が群れを作るところから考えていく。チンパンジーと人間の幼児にいろいろ実験してみて、群れのなかでの相互関係、相互認知がどう違うか、というあたりを見ていく。すると、たとえばトマセロによると、人間では、5歳ぐらいで集団の規範意識、ぼくたちはこうしなきゃいけないよね、という共同体意識みたいなものが出てくる。これはヘーゲル風の精神の雛型になりうる。こういう実証的な根拠を置いて、そこから先は、たとえばベネディクト・アンダーソンのように、国民という共同性の成り立ち方を考える。こういう実験や観察からの積み上げ方式で共同体の水準まで行けるはずだ、というそういう議論の組み立てになりますね。

ヘーゲルについては、科学哲学者のハンス・ライヘンバッハは、著書に「哲学者はヘーゲルのようであってはいけない」と書きました。20世紀前半のドイツ〔語圏〕の科学の哲学、それから英語圏の哲学には、反ヘーゲルの傾向があります。ヘーゲルではない道を取るということが自覚的に行なわれたわけですね。

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track 6 / 必然への懐疑、習慣のはじまり
00:00 / 05:59

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 参加者 : 「natural history」(自然史、博物学)という言葉に伴われる“進化”的なニュアンスは、英米系ではどう理解されるのか。

 田村 : 「natural history」というとき、一番基本的には、事象を観察して記述していくということで、ジョン・ロックという人は、自分の哲学を「historical, plain method」と言うんですけども、なにを意味しているかというと、歴史じゃなくって、事象を観察して逐一記述していくことです。観察と事象記述ということがhistoryの重要な点になる。

でもここで、トマセロがnatural historyというときには、進化的な時間が入っています。チンパンジーとヒトの共通の祖先から、どういうふうにして、ヒトの思考形態や、言語が出てきたのか、道徳感覚が出てくるのか、時間の順序に沿って記述する。ただし、進化なので、これはあくまでも、因果的な推移です。こういう環境条件が設定されたためにこういう適応が起って、それ以外のやつは滅んだ。そういう記述です。

 参加者 :  その点について、最近ならカンタン・メイヤスーが「必然の堆積が現在を構成しているわけではない」と言っている。彼は因果律やその連鎖を自明に必然化すること自体について問題提起している。(宇野: それはヒュームの問題)。

 田村 :  ヒュームはどう言うかというと、必然性というのは人間の習慣づけだと、そう言います。人間がそう見る習慣ができちゃっただけだ、と。火が燃えている、手をかざすと熱い、何回やっても熱い、すると、火を見れば、熱いだろうなって思う、それが必然性なんだ、人間の思考の習慣づけだって言うのです。ヒュームってそれだけしか言ってないの?というのがヒュームの因果論の解釈で議論のあるところです。

 

ちょっとヒュームを離れて言いますと、結局のところ、出来事の実在的な繋がりを認めない因果論というのは作り得ない。因果的な“説明”の方は、言語化を通じていろんな形で人間の構成が入ります。でも、たとえば、身体が固い物体とぶつかったら、身体は物体のなかに入っていかない。こういう個別的な因果的“事実”は、原始的な事実として認めざるを得ない。これを受け入れないと、たぶん、生きて行かれない。そういう水準の原始的な世界の成り立ちは、説明に先行して実在するわけです。これとほぼ同じことをヒュームも言います。ものがあるのかないのか、それは問うことはできない、それはもう前提なんだ、それで、では人間はなんで「ものがあると思う」のか、そこが哲学の説明すべきところだ、と。これはウィトゲンシュタインとそっくりで、要するに、世界があるっていうのは認めなきゃしょうがない、それを認めない全面的な懐疑を生きられるわけがない。これは、empiricism(経験論)が、世界は人間に表象的なものとして映し出されているに過ぎないという懐疑論を乗り越えていくときの、基本のパターンですね。

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