​宇野邦一『政治的省察』・連続対談

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第0回:2019/06/22 
宇野邦一さんと田村均さんの対話

『政治的省察』を読み解く

track 13 / 意志はある or 意志はない
00:00 / 06:37

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 宇野 :  意志の問題をもう少し整理してみたい。仮に大まかに言えば、思想には“意志こそ重要である”という傾向と“意志など存在しない”という傾向がありましょう。スピノザは明白に「自由意志など存在しない」とした。スピノザからすれば、デカルトのように、精神を、身体から自由で、身体を統御しうるものとする発想は、端的に間違いである。スピノザ哲学では“身体の状態-精神の状態”はまったく対応しているので、自由な精神と不自由な身体という対立は存在しない。スピノザはこうした前提にたって「身体には何ができるのか」と問う。スピノザのこの問い方にはドゥルーズも着目している。これが政治と自由に、どう結びつくかということが問題になります。じつは、その問題が、スピノザのエティカの動機でもあった。

思想史上、いろんな見方がありえますが、初期のキリスト教は、ギリシア哲学よりも、自由意志を本格的に問題にするようになった。“ある行為が罪と分かっていながら罪を犯す”というときの罪の問題には、“個人の自由”という問題が関わっている。それが罪なのは、罪だとわきまえて罪を犯すからである。自由な意志が罪を犯す。キリスト教的な内面性と、自由意志は深くかかわります。フーコーが言い出した牧人(司牧)権力と呼ばれるものもこれにかかわります。権力が内面に深く浸透するというシステムが誕生します。ニーチェの“力への意志”では、こういった権力への批判が動機となり、「私の背後にある無数の自我が、意志している」という意志論へと展開する。これはフロイトの無意識の見方にもつながる。近代の“意志を持つ主体”というものが、どれだけ“いかがわしい”のかは、マルクスにとってみれば、それはブルジョアの、下部構造を反映した自意識であり、偽の意識にすぎないということになります。例えばシュティルナーの『唯一者とその所有』でも、「“自己”と呼ばれるものは、全部おしつけの偽物なんだ」と言わんばかりですが、シュティルナーは、もっと強い、自立した真正な自己の確立を要求します。


これに対してアレントは、あくまで「“意志する人間の政治”を構想しているように見えますが、実はそう言い切れるわけではない。ここの微妙なところにこそ、アレントの“自己内対話”の問題がある。たとえば「道徳的に間違ったことをする自分とは、自分は一緒に居られない」というソクラテスの言葉を引き合いに出しています。ただアレントは、いわゆる“自己意識”とも、シュティルナー的自我とも、かなり違う自己の自己内対話について語っている。アレントにとっての政治的自己は、ファシズムと絶滅戦争を通過したあとの世界で、近代的自己‐政治の連環も無力と見えた時代のあとで、再考されたものです。これを懸案にしながら、『政治的省察』後半では、ヒュームやデカルトの自己論もとりあげながら、ドゥルーズ=ガタリの欲望論からは少し離れながら、むしろアレントの問いをフーコーの“自己への配慮”とつなげることで、意志と自己の問題を政治の問題と再度、接続しようとしたわけですが、まだ仮説的で、道半ばです。

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track 14 / アイヒマンと河村参郎
00:00 / 10:49

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 宇野 :  そもそもフーコーの“生-権力”は、『知への意志』第五章で、近代の生命に対する権力の特徴を、10ページくらいで素描的に書いたものが、大きくインパクトを広げていって、話題になったわけでした。田村氏は、古い権力でさえも、ただ死なせるのではなく、死を自発性として組織する仕掛けを持っていた、成功した権力はいつも、自発性を促すものである、と書いています。『自己犠牲とは何か』では、東京裁判で裁かれた日本の軍人たちの姿勢を検討しつつも、例えばそれがアイヒマンの事例とどう異なっているか、意志や有責の問題をあらたにどう理解すべきかを書いている。


 田村 :  そう、ただし、できるだけ日本の文脈と言わないように、人類が持っている普遍的な文脈の一つの現れとして日本がある、その文脈のもう一つ別の現れとして西洋がある、そういうスタンスでやったわけです。同じ様な戦争犯罪と言っても、イェルサレムのアイヒマンとシンガポールの河村参郎は違う類型になるよ、と言いたかった。

 宇野 :  アウシュビッツのユダヤ人大虐殺にかかわるアイヒマンと、シンガポールの華僑大虐殺についての河村参郎とは、図式的にはどう違うのだろうか。


 田村 :  まずいちばん目に付くのは、アレントが書いていますが、アイヒマンはカントの哲学を理解している。「人間は時の権力に盲従するのではなく、自由な一つの理性として自分の原理に従わねばならない」とアイヒマンは言うことができるんです。つまり、定言命令としての実践理性をアイヒマンは理解していて、「そうすべきだったが、ヒトラー政権下ではそうできなかった」と述べている。対して河村参郎などの日本の軍人には、天皇から下って来る命令に対して、一個の独立の人格として判断し行動しなければならない、という言説を組み立てることができる人はいなかったでしょう。近代の自律的な個人というイデオロギーを、アイヒマンはもっている。けれど、日本の軍人たちはもっていない。これがまず目に付く違いだろうと思います。

そして、戦犯として死刑判決を受けた河村参郎は、「日中両国民の融和」という理想的な世界、理想的な共同体の物語を考えて、その世界のために自分は身を投げ出します、と言う。遺文にそう書かれています。他の多くの戦犯者も同様に、こうした“自己犠牲”という物語を語っている。つまり彼らは“戦争犯罪による死刑”という抗えない決定に際して、それを“自己犠牲の物語”に書き換えることで受け入れている。権力が「おまえは死ね」と言ってきたときに、自分がいけにえになるという物語を作ることによって、権力を受け入れるわけです。こういういけにえの物語というのは、人間が圧倒的な権力と接したときに取る一つの定型なのではないか、ということです。


でも、近代的な世界ではそうはならないはずです。権力が降りかかってきたら、人は「自分はそれではなくこっちが正しいと思う」と別の原理を打ち出すか、または、「よく考えたらそれが正しいと自分も思う」と言うか、どっちかになる。「本当は嫌だけど、皆が言うなら自分は犠牲になります」という自己犠牲の発想は、近代的個人からはまず出てこない。例えばティム・オブライエンは、ベトナム戦争に徴兵された経験をある短篇〔「レイニー河で」〕に書いています。しかし、そこでは「この戦争は正しいと思わないけれど、皆が正しいと言うなら自分は犠牲になって戦争に行きます」という考えは、まったく出てきません。正しいと思っていなかったのに戦場に行ってしまった自分は卑怯者だ、という苦い述懐があるだけです。

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track 15 / 自己犠牲という演技
00:00 / 12:18

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 宇野 :  ドイツ人というあのように重厚な哲学的理性の伝統を持つ国民が、ナチズムに至ったという事実については色々と議論がある。いわばアイヒマン的なタイプのアンガージュマンがある。そして、日本の軍人的なタイプのアンガージュマンもある。それがどういうタイプのものだったかということは、現在の日本の政治を考えるうえで、すでに「無責任の体系」(丸山真男)というようなかたちでの日本人批判が綿々とあるわけですが、自己との関係というかたちで再考すべきことがあると思います。田村氏の「自己犠牲」論を、僕はそういうふうに受け取りました。

 参加者 :  アイヒマン的タイプの悪と言ったら、私たち皆の中にある“悪の凡庸さ”。自律性を理解していたアイヒマンのフィルムを見ると、彼は本当にロボットのように振る舞う。証言台でぴょこっと立ち上がり、とうとうと自己弁論を続ける。対して日本の河村参郎の場合は、自己犠牲という自分の行為について確信はあったのでしょうか?


 田村 :  自発的に死ぬというのはきわめて理解しにくい振る舞いです。たとえば、モーリス・パンゲなども、そこに問題を見て『自死の日本史』を書いた。私も似たような問題意識があるわけですが、私は、自己犠牲は極めて演技的なものだと思っている。この“演技性”とは一つの事態について、現実的認識と物語的認識とが二重化するという意味です。古代から人類は、動物を殺して神に捧げる儀式、供犠を行ってきた。人類は一般に動物を殺したくないと感じているけれど、殺して食べる必要がある。そこでその殺害を正当化するために“犠牲”という物語を作る。

 

例えばアイヌのイヨマンテでは、子熊を殺す前に棒で突っついて暴れさせ、それを見て「子熊が神の世界に帰還できると喜んで踊っている」と皆で確かめ合う。なぜそんなことをするのかといえば「子熊は死にたくない」と皆が認識しているから。つまり「動物は死にたがってなどいない」という明らかな現実認識があり、それを全員が分かっているからこそ、「動物が(喜んで)自発的に犠牲になる」という物語認識が作られる。この現実と物語の二重性の上で動物に演技させることによって、人類は強い罪悪感を感じることなく動物を殺すことができた。この人類学的定型としての二重性は、たとえば河村参郎の場合、自分はほんとうは無罪であり、死ぬべき人間ではないし、死にたくはない。一方にこういう現実の自己認識がある。でも、日中融和のためという自己犠牲の物語を自ら設定し、その物語のなかで演技することで、進んで死ぬという振る舞いができる。こういう二重性になる。一つの身体なんだけれども、現実の死にたくない自分と、物語的な日中融和のために死ぬ自分というように二重化する仕組みとして、「犠牲」という言葉に含まれる概念的な二重性が使われている。

また例えば神風特攻隊について、自己犠牲として私たちが認識できるのは「彼らが本当は死にたくなかった」ということを十全に認識しているから。彼らが「本当に死にたかった」のなら、それは一種の自殺に過ぎず、そこに価値は生まれない。「本当は死にたくなかったのに、死んだ」からこそ、なにか価値を感じてしまう。このように演技性の設定は、彼らを記憶し、解釈する私たちにも共有されている。

 宇野 :  そういうフィクション性は死に臨む以外の場合も、例えば多かれ少なかれ危険を冒して革命的行動を取るときなどにもあり得る。


 田村 :  日常的なものでもあり得る。アメリカ人の書いた論文で読んだ例ですが、せっかくの休日に子供の野球を応援しに行かなくてはならない人がいるとする。彼は、ゴルフに行きたい気持ちを“殺す”というサクリファイスを行う。これがサクリファイスなのは、子供の応援に行くことが自分にとって最良であると本人が納得しては“いない”から。納得しているのなら“応援に行く”ことこそ最良であって、当然それでいいわけです。革命の場合も、自分は本当はのんびり暮らしたいんだけど、その気持ちは殺してみんなのために革命的行動をします、という場合は、自己犠牲的行為になるでしょう。でも、いや自分は本当に革命に献身することが自分自身の望みなんです、というように完全に一つに統合されている場合は、殺されるもの、犠牲にされたものはないので、自己犠牲的行為ではないことになる。だから、近代の統合された個人の行動のなかには、サクリファイスというものはないんです。自由意志にサクリファイスはない。このことは、アメリカの社会学者ロバート・ベラーたちが多数のアメリカ人に聞き取りをして書いた『心の習慣』という本のなかにきれいに出てきます。本当にあなたが愛する人のために何かしてあげたいと思うなら、それは自己犠牲ではない。こう考えるように、現代のアメリカ人はなっているようです。

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